各小説をこちらに移しました
- 2010/04/11(日) 02:31:37
明治維新内伝の各小説を以下のサイトに移しました。
ご高覧いただけましたら幸いです。
■其ノ一 文久三年(改訂版)
http://itnovels.exblog.jp/
■其ノ二 元治元年
http://ishi-novels.at.webry.info/
- 付記
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筆者付記
- 2010/01/01(金) 20:13:14
この文久三年の記録は右の箇所で中断しており、刃物で切断の痕跡があった。逸文を捜索したが発見出来ず、故意に隠滅したものと思われた。ただし続く元治元年以後の記録が残存していることは幸いであり、現在なお整理中である。
この記録は、かって金沢市兼六公園内にあり戦後不慮の火災により烏有に帰した木造西洋館、石川県県立図書館の保管文書のうち、僅かに焼け残って発見されたものの一つであって、旧加賀藩有志により明治中期に作成された未整理記録の一端であると伝えられている。
水濡により判読困難となったこの手書き和紙の束に筆者が接することができたのは後年のことであり、拙文は学生有志の協力を得て判読編成したものである。編成に当たっては、新しい用語を加え、若干の補正、補筆と共に、漢字、仮名遣いを改め、会話の部分には段落を施した。
戦前、県下某中学校の剣道教師を勤め、戦後は同県立図書館の雇員となって保存物の管理を受け持ち、図書館の焼失後は退職して金沢市古寺町に老後を過ごしたm氏の話によれば、この保管文書は三階書庫に放置されていたものであり、由来については当時すでに詳細を知る者はなく、氏名不詳となったその語り手は間もなく県下に起きた重大事件の容疑に連座して捕らえられ、獄中数年の糾問の後、明治末期、老齢の身で金沢監獄に刑死したと言われ、刑死体は当時の制度により学術験材となり、頭部は首より切断縦断され、ガラス瓶入りフォルマリン漬け標本として、当時の国立金沢医科大学に現存しているとの噂があったという。
筆者がさらに後年、平成年間に入って後、知人を介して旧金沢医大、現在の金沢大学医学部に勤務の医師に問い合わせたところ、戦前よりのフォルマリン漬け人体学術標本は多数あるが性別年齢の付記があるのみで氏名は一切記されておらず、それらの来歴等を知る者はいないとの回答に接し、過去の事実を知ることは出来なかった。
同医師の追記によれば、金沢市郊外卯辰山の山頂に明治大正期の医学用験体者の顕彰碑があり、数十の氏名の列記があるとのことであるが、筆者はまだ知見の機会を得ていない。
- 付記
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一、
- 2009/12/01(火) 20:11:30
翌日、それでも何事もなかったように虚空を供に、梅野と一緒に長州藩邸へ戻りました。控えの座敷へ座ると梅野は手を突いて、またも謝るのでした。
申し訳無う存じます。
いや、なに。
重ねて謝られると、こちらこそ恥入るほかありません。ただし梅野は昨日の行為を詫びているだけでなく、伯父土方楠左衛門の言に背いて、わたしに身を許さぬことも詫びているのでした。形は詫びですが実は先へ向けての、不承知の宣言でもありました。昨日の屈辱が心によみがえります。
幸いに人は近付いて来ません。しかし長州藩邸はどうしたのでしょう。寺島忠三郎も入江九一も不在で、藩邸がざわめいています。梅野の前を逃れ、台所番をつかまえて尋ねました。
何かあったんかね。
大変じゃ。小村さぁが斬られた。
なにっ、それは。いつ。
昨日ですがの。六角堂あたりでらしい。今日奉行所から屍体の引き渡しがあるちゅうことで、皆行っちょります。
小村。それは京都藩邸の小者で、寺島忠三郎の従者になっていた萩出身の若者でした。
他には。
当藩じゃぁありませんが、一緒にいた土佐藩の例のブイ殿も斬られた。
えっ。
相手は見廻組じゃそうです。詳しい事はまだ一つも分かっちょりませんが。
見廻組。先日わたしが五条でブイと共に遭遇し笠間金兵衛が現れたため斬らず逃がした、あの連中です。ブイが斬られたとは。血が湧き返る思いでした。小村もさることながらブイは苦難を共にした同志でした。
やがて小村の遺体が屋敷へ帰ってきました。寺島忠三郎も入江九一も沈痛な面もちです。
何があったのですか。
分からん。不審を咎めたところ反抗した故に斬ったとの見廻組の報告、ちゅうだけで剣もほろろの答じゃった。我が藩と手切れ覚悟の強腰じゃった。
気性の激しい長州人です。寺島の面相は激高のあまり青ざめていました。
見廻組は例の浅尾侯の預かりですな。
旗本寄合、蒔田相模。特命で諸侯に列した。功を焦っちょる。
つまり見廻組の強腰も、幕府の方針か。
もとより。所司代、奉行所。ともに高圧の態度じゃった。いずれ戦じゃ。
戦。寺島忠三郎はその態度でした。蛤御門の戦は、翌元治元年夏に起こります。言う寺島も入江九一もこの戦で戦死するのですが、戦が突然起こったのではありません。この日の事件は小者二人のこととはいえ、狼煙の一つでした。浅尾屋敷や所司代とどのような掛合があったかは知りませんが、長州藩邸は悲壮な空気に包まれていました。特に寺島忠三郎は、自分の従者を斬られたのです。
二日置いて小村の葬儀が長州藩邸であり、その翌日は智積院でブイの葬式が行われました。東山智積院は、この春、松木七兵衛を斬る手筈を決めた方広寺、ブイが弁当を四つも喰った方広寺の裏手、懐かしい一帯です。
容堂候の意向で勤王党が一掃された土佐藩邸には顔出しのできないわたしでしたが、寺なら知らぬ顔で行く事ができます。真言宗智山派総本山智積院は土佐藩の菩提寺の一つ、この春正月、容堂候が上京の宿舎とした大寺でした。とはいえ小者のブイの葬式が本堂や大塔頭で行われる筈もなく、小さい観音堂での葬式でした。
勤王党の面々は譴責を受けて本国に帰り、武市半平太は同志数名と共に牢獄にいます。あの首領ら三名はすでに半年前に切腹。土方楠左衛門、中岡慎太郎、清岡半四郎、上岡肝治らは七卿が一人減っての六卿とともに長州藩地、周防三田尻の招賢閣に亡命です。もはや土佐藩京都藩邸にはブイの同志はいないでしょう。この葬式には出なければなりません。ああブイ。見廻組に襲われれば一たまりもなく斬られたでしょう。血まみれのブイの顔が見えるような気がしました。悲痛な気持ちを押さえ、わたしは式場へ入りました。二万坪の境内、師走の風が寒く、人数は疎らでした。
あ。
意外なことでした。この春、松木七兵衛を斬った翌日、池田屋に訪ねてきた色白の青年武士に出会いました。
まだ、あなたが居られたか。
はい。目逃れで残っちょります。これは、よう来てつかぁさった。ブイが喜ぶじゃろ。間もなく始まりますきに。こっちの床几にお控えください。
ほかにも参会者の中に顔見知りがおり、会釈をすることができました。さほど冷たい気配でもないのでした。人も次第に増え、祭壇も貧弱ではありません。
おう。これは。
思い掛けなく正面に大きな白木の霊位。墨痕淋漓、達筆のものです。しかも書かれた文字は痛快なものでした。
勤王の士 高島武一郎源辰義の霊
これは。
意外も意外、このような立派なしつらえがあるとは。この藩邸でも土佐勤王党の根は絶えていないのでしょうか。
今は佐幕一色と思った土佐藩邸で、まるで武市半平太が健在の日のような思いがするのでした。今まで悲痛だった気持ちが突然の感に打たれ、感激が湧き起こりました。わたしの眼からは涙が溢れました。止まりませんでした。ブイの顔が髣髴として見えるようです。
おう。ブイよ。勤王の士とあるぞ。ははは。見たか。高く掲げられて皆が仰ぐ。立派なもんや。長男に生まれながら家督を継ぐことが出来んで家の厄介者となって、名もろくに呼ばれんで勤王党の陰で黙々働いてきたブイ。さぞ口惜しかったやろう。そして斬られた。しかし今や、皆が認める勤王の士や。ブイ。高島武一郎よ。
あの夏の日に岩清水八幡宮の社頭で、南無弓矢八幡と武運を祈り、神馬の鼻を撫でたブイの姿を、わたしは思い出さずにはいられませんでした。
ブイも武士や。志士として戦って死んだがはブイだけやないぞ。ほ、本望と思え、ブイよ。
人はさらに多くなり、思わぬ盛んな葬儀となりました。わたしは寒風の中を最後までいましたが野辺の送りは遠慮して、藩士に添われ棺が運ばれて行くのを見送りました。先ほどの青年武士も後始末に残っていました。
立派な葬式でしたな。それに、霊位が良かった。
はい。乾退助殿が書きました。
と青年武士は少し浮かぬ顔で答えました。
なに、乾さんが。
武市先生が居られたら良かったに。
乾さんには先日、長州屋敷で会いましたよ。やはり乾さんは勤王党になられたんか。
とんでもない。長州の勤王派と手を結んだだけで、藩内では上士党です。われわれ下士の勤王党を眼の仇にしちょりますよ。獄にある武市瑞山先生を糾明しちょる大監察は小笠原唯八じゃが乾退助もその一味です。なんと言うても容堂様の側近じゃきに。
それにしては、ようあの霊位を書きましたな。勤王の士とある。
武一郎の家は微禄じゃが上士じゃきに。弟が後を継いじょる。顔色を見ちょります。それに長州藩への思惑もある。
と、青年武士は吐き出すように言うのでした。土佐藩の内情も複雑でした。しかし上士と下士とはついに融け合わぬもののようです。加賀藩、大聖寺藩でも同じことでした。
とは言え、乾退助が中岡慎太郎と勤王を誓ったことは、土方楠左衛門や数人から聞いています。単に上士の付き合いなら、ブイの霊位に勤王の士と書いたのは余計です。乾の心境に何が起きているのでしょうか。
ふと思い当たりました。長州勤王派と結んだ乾退助です。もしやブイは乾の命で長州藩邸の小村と同道していたのではないでしょうか。何かを持参していたのではないか。そうだとすれば総べて辻褄が合います。襲われたのも合点が行きます。見廻組と何かが起き、乾退助は何かを知っているのではないでしょうか。疑惑の雲が心に浮かびました。この人物が後年、板垣と姓を変え自由党の領袖となって後も、味方の信頼を裏切る行為があったことは広く知られています。
や。
眼の前に虚空が立っていました。黒木綿の着物は短いながら裾をおろし、いつもの茶頭巾を被っています。足は半草履、寺の小者に紛れる目立たぬ姿でした。
お。来てくれたか。見いや、ブイの霊位を。
虚空は字が読めないでしょうが、霊位の立派さは分かるでしょう。
へえ。兄貴も来てます。
なに。
青場幽左衛門が近付いて来ました。例の死人から剥ぎ取ったという黒団子紋の白衣です。その異様な姿を見て、青年武士は立ち去ります。
やあ、兄弟揃うて来て呉れてかたじけない。早う権幣寺のことを話に行こうと思うとったけど。おまん等に来て貰うてブイはなにより喜ぶやろ。わしが初めて虚空やら沢兵衛等に会うたんもブイの案内やったもんな。見いや。この葬式は盛んやけど、ブイの友達はおらん。わしと、おまん等だけや。
へえ。盛大でよろしおしたな。もっと淋しやろと思うて。せやけど却って邪魔らしい。
うん。これはこれで良い。ブイの面目も立った。一緒に帰ろうか。
いえ。じつはこの葬れん、見張られてます。用心して、お先に行ってお呉れやす。
そうか。
ブイは勤王派として斬られたのです。その葬式が公儀から見張られるのは当然かも知れません。葬式は妨害されないでしょうが、出席者は眼を付けられるのでしょう。覚悟の上です。青場の言葉に従い、わたしは一人で寺を出ました。
ブイの棺のあとを避け、方広寺の方へ向かおうとした時です。竹薮と畑があり地蔵堂の前が少し広場になった道に、ヌッと立っていた三人の武士と出合いました。通行人ではなく、明らかに佇んでいた風情です。わたしも思わず立ち止まりました。
やはり三人はブイの葬儀を見張っていた者のようでした。特有の暗い気配がありました。双方黙って向かい合いました。険悪な空気が流れました。
通られよ。
と無礼を言ったのは三人の中で、ひときわ体格のいい、不気味な武士です。
通れとは、貴公ら何者や。
これは、ブイを斬った見廻組だな。わたしの直感でした。もしその見廻組ならブイの仇です。用心どころか、斬りたい衝動が身を走りました。
そのとき背後からパタパタと足音が聞こえました。半身になって見ると、虚空でした。走りながら虚空は大声で叫びました。果たして。
やめとくれやす。見廻組のお方や。お上や。
やめろと言いながら、実は相手の正体を知らせて呉れているのでした。虚空や幽左衛門がブイの葬式に来ていたのはもとより手伝いの為ではなく、この見廻組の接近を察知していたのでしょう。虚空は奉行所同心配下の目明かしとして御用を受けていたのかも知れません。
そうか。見廻組か。
いかにも。見廻組ならどうする。
と相手も喧嘩腰になります。わたしを土佐勤王党の一味と思ったのか。
やめとくれやす。そのお方は講武所の佐々木只三郎様や。ご用のお方や。
ウザクラしい。寄るな。邪魔や。この目障りな奴ら、どかして見せるざ。
やめろと言い続けながら虚空は次々と相手の力量まで知らせを送って来、わたしがたじろがぬ様子を見て取ると、パタパタと引き返して行きます。逃げるような虚空ではありません。兄の青場に知らせに行ったのでしょう。
佐々木只三郎。
講武所剣術方教授を経て幕府の浪士取締出役。後の見廻組の与頭です。この年の春、江戸で清河八郎を斬ったことで知られていました。見廻組の結成にも参与しています。今もひそかに指導を行っているのでしょう。刀は新陰流と聞いたことがありますが、実は無名の別流儀でした。したがって太刀筋の見当はつきません。
左半身に立っていました。寒さも平気な風に紺の木綿の筒袖に袴を短く著けています。血色良く異常な精気を発する男でした。あとの二人は身構えから見て取るに足る相手とは思えません。間合いを取ったまま寄っても来ません。佐々木が静かに前に出ました。敵意があります。
ふ、やる気か。
横の二人を眼に入れながらも、わたしは先ず佐々木だけに向かい詰め寄りました。ブイを斬ったのが誰であるにせよ、佐々木只三郎は仇の元凶と思ってよいでしょう。寺島忠三郎の従者小村の仇でもあります。放置したら長州屋敷の連中はどう思うでしょうか。虚空も間もなく帰って来ます。気は立っていました。
理由を知るよしもない佐々木只三郎も、意外な殺気を感じたのでしょう。左手を刀に掛けました。応じて鯉口を切らざるを得ません。それを見ると佐々木の顔色がかわりました。
本気か。馬鹿が。
なに。
ここまで来ると成り行きです。智積院から土佐藩士が数人こちらを見ていました。もはや止めることは出来ません。何といっても文久三年の京都、殺気は常のことです。理由の詮索は無用でした。相手も人斬りの見廻組です。やるか。抜くほかはないでしょう。何よりブイの仇。わたしは他の二人を無視し佐々木に向けて抜刀しました。正眼を取りました。
佐々木もことあれかしの態度でした。せせら笑って、すかさず抜刀しました。が、はじめは互いに逡巡があります。構えた佐々木の剣法はやや不規則なものでした。まず間合いが遠いのを見るや、一刀流にいう霞の構え。
道場での試合とは異なり、他流を混えて意表を突くのが実戦の術策です。佐々木はその挙に出ました。
霞上段。筋骨隆々たる両手を高く右に寄せ、右頭上に拳を交差して切っ先を左、柄尻を右に。眉間上にフワリと浮動する横一文字の刀は霞と名付けられる応変自在の構えです。左前半身。そのままじりじりと寄ってきます。わたしも構わず押して出ました。押す。その強硬な間合いの寄せを意外、不安と見たのか、佐々木は急に霞を解き、右八双からさらに正眼に直すのでした。正眼は最も正統の守りの型です。わたしの出を見るのです。始めややケレンの出方でしたが変化は機敏で、油断のならぬ立合でした。
相正眼です。暫くそのまま。
佐々木は気短の性のようでした。始めは斬り会う気までは無かったにせよ、二人の部下の手前もあったでしょう。急に一歩踏み出し殺気が立ちました。命知らずに迫ってきました。殺気の立ち方から見ると、これは明らかに人斬りに慣れたものです。しかしわたしも不本意ながら四人を斬った後生人です。気後れは無く一歩も引きません。佐々木はどう感じたでしょうか。剣気。突如、猛然と打ち込んできました。鋭い太刀風でした。一瞬遅れたわたしは左右へ凌ぎます。
たあ。
気合いとともに本格の襲いが来ました。だっと右足を踏み出し、捨て身の振りかぶりでビュンと斬り下げが来ました。予期せぬ相手の捨て身。打つ余裕は無く、不意を打たれて辛うじてかわします。またビュンときます。体重の乗った恐るべき練達の剣でした。またビュンと耳元を掠りました。
この時わたしは一歩引ききました。正眼を立て直しました。また一歩ひきます。
佐々木はかまわず捨て身に打ち込んで来る。これは大した相手でした。しかし一瞬立ち直ったわたしです。今度は下がらず型慣れた手の内、一刀流奥義、鍔割の受け。
えい。
鍔をパチンと掠めて空を打たせ、必殺の突き。
驚いたことに佐々木は体勢を崩したまま、かわしました。やる。思わぬ剣客でした。この春討った松木七兵衛とは較べものになりません。思えば松木七兵衛は心得ある武士というだけであり、この佐々木只三郎は本職の剣客でした。
鍔割の突きは二挙動ではなく一手です。交わすは至難。このわたしの突きを交わしたのは、かつて稽古で笠間金兵衛がいるだけです。佐々木は真剣白刃で交わしたのです。あなどった、という戦慄がわたしの背を走りました。こうなると間合いのため下がることも危険でした。
佐々木もわたしを侮れぬと見たのでしょう。一歩下がり、また霞に構えました。
霞は、受け、突き、斬り、上下左右、陰陽のいずれにも変化する、心術を霞に隠すといわれる構えです。まず内に蔵した秘術を探らねばならぬ厄介な剣です。
佐々木は高霞を取り、右足を引いて半身に開き、切っ先をわたしの眉間につけます。猛悪な構えでした。
えいっ。
と正眼から探りの突きを入れます。佐々木は待つ気はなく、軽くかわして、あっ。脱兎のごとく剛の斬り付けに来ました。鋭い。ようやく凌ぎますが重い剣でした。これは。殺人剣です。また来ました。巻落とそうとして外れました。淀みが無い。また振りかぶりの剛剣。速いっ。
とっさに切落し。捨て身の技。瞬間やむを得ない仕儀でした。切落しに始まり切落しに終わるのが一刀流の極意です。
切落しとは、相手と同時に斬り下ろす刀法です。当然、相打ちになります。しかし、心の恐れを切落した者がさらに強く切落とせば、真っ二つと斬ってくる敵の剣を弾き下げるのでした。鎬ぎ落しです。
わたしの刀は鵜首です。切っ先に重量があり弾きが違います。一瞬、決まった。
やっ。
続く突差電光の突き。何と。佐々木只三郎は再び交わしました。切落し突きは一刀流の極意です。これを交わした敵は恐るべき剣士でした。
真剣の突き。もとより捻り突き。敵の筋肉の収縮に刀を取られないためです。突く右腕がかぶさって上になる。これを打つのが交わした者の常套です。一瞬に引く。代わって左袈裟討ちが来ました。激しいものでしたが、これは牽制の一刀で、佐々木は下段に構えじりじりと下がりました。わたしも下がります。ほっとしました。憎むべき敵とはいえ強敵です。今これ以上戦うべきではないでしょう。
佐々木が下がると二人の部下が抜刀して出て来ました。わたしも向き直りました。取るに足らぬ弱敵とは言え、その後ろには一歩下がって下段に構えた佐々木がいます。再び来るかも知れません。弱敵二人に力を使い過ぎ、心をそらしてはならないのでした。
しかし佐々木はさらに下がりました。来る気は無いようです。しかも二人を止め立てはしないのです。
これは。気が付きました。佐々木は二人を斥候手に使っているのでした。味方が斬られるのは意ともせず、下段のまま刀法をジッと見ているのです。これは冷血の態度でした。わたしが二人を斬るとき、佐々木の襲撃が来るのです。
仕手が後ろに立つ。
まず味方を斬らせる、恐るべき布陣でした。背後から督戦され懸命となっている二人から刀を引けば三人の追随を招き、不利となるだけでしょう。呪縛を逃がれる手段はありません。罠にはまったのでした。
剣を取っては冷血の武士。
清河八郎を斬ったときも似た手法を取った佐々木只三郎でした。最も用心せねばならぬ相手でした。
その時です。智積院の方から異様な唄声が聞こえました。
何か。一瞬眼をやると、それは青場幽左衛門でした。あの白衣を尻端折りして奇怪な踊りをしながら近付いてきます。わたしに向き合う二人の侍は驚いて体勢を変え間合いを取り直します。佐々木只三郎は冷たい眼のまま、ちらりと様子を見ただけです。
青場幽左衛門は大股で近付いて来ます。両手を振って大袈裟な踊り。傍若無人な声高の語り節。嘲笑するような卑猥なものでした。
ようやれ、ようやれ、チョボクレ、ちょんがれ、
そもそもワッチが、すっぺらぽんのォ、
のっぺらぽんの、すっぺらぽんと、
あ、坊主になったァ、いィわれ因縁、聞いても呉んねえ、
願人坊主のチョボクレ踊りでした。剣を構えながらチラリと見ると、早くも見物人が立つ中で、白衣を翻して身を回しています。踊りも達者なものでした。髪は乱れて、かえって願人坊主の悪みたいです。葬式に願人坊主が施しを求めて集まることは多く、人集めの踊りも珍しくないのですが、これは。不敵な態度に過ぎます。しかも向こうには虚空が石を握って立っています。
しィかも十四の、その春初めて、
一軒隣の、そのまた隣の、
いっちく、たっちく、太右衛門殿のォ、
ちょんぼさんと、ちょぼくれ、ちょぼくれ、ちょぼくれェ、
わたしは二人の武士を相手に刀を構えているのです。大した相手でないと油断をすることはできません。チラリと見ただけで少し脇へ回り込みました。しかし青場幽左衛門は踊りながら平気で剣戟の場へ近ずき、巧みな間合いを取ります。わたしを助けるため三人を妨害する気でしょう。確かに、この二人か佐々木只三郎か、どちらかを牽制すれば、わたしの活路は開けるのでした。
色のいの字の、味を覚えて、おちょんの、ちょんちょん、
裏の上さん、向こうの小母ちゃん、
お松さんにぃ、お竹さん、ありゃ、
椎茸どんに、干瓢どんと、
触り次第に、おててん枕で、
昼間の椎茸、婆ぁの金玉、こよりで
只者ではない、と思うほか無いでしょう。故意に唄を野卑に替えて回りの見物の関心を誘っているのです。奇怪な衣装で手に鎖を持ち、別に肩からも鎖を回し掛けにしています。二本鎖でした。佐々木は様子を見て取りました。あえて踏み出して間合いへ入りながら、
ふ。邪魔が入った。引けい。
今、僅かな妨害でわたしが優位に立ちます。その駆け引きを知らぬ男ではないのでした。佐々木只三郎の声に、侍達はへなへなと後ろへ下がりります。それをかばいながら佐々木は一歩進みました。
刀を引きたい。異存ないか。
うむ。そっちに、しる気がなけりゃ。
ほう。貴公の言葉は加賀言葉と見た。加賀侍を敵にする気はない。出合の喧嘩じゃ。気を悪くされるな。
そう言いながら腰構えは厳しく、じわりと立っています。
他の侍達とはまるで違う相手でした。ブイの仇でなくとも敵です。いずれは戦わねばならぬ相手だな、と思いました。しかしこの状況で斬り掛かることはできません。侍達が刀を引いた様子を見て青場幽左衛門は、
娘化粧すりゃ狐が覗く、
めった出まかせ足まかせ、ちょい、
などと唄いながら、踊りながら、少しづつ離れて行きます。
心得た。
わたしも刀を引きました。佐々木只三郎はニヤリと笑い、静かに背を向け、二人の部下を引き連れ平然と去って行きました。
しかし、この見廻組といい新選組といい、戦法は非情のものとなってきていました。佐幕と倒幕と。対立が鮮明になりはじめたのが文久三年でした。
それまでは佐幕攘夷論もありました。開国も武装開国論が主流であり吉田松陰さえ幕府による武装開国を期待した時代がありました。橋本左内の開国論もそれ。この春切腹した長州藩士、長井雅楽の航海遠略の策もその流れでしょう。しかし幕府による開国は屈従開国となるのが現実でした。論はどのように道理に満ち、明敏なものであっても、やることは屈従開国となるのです。航海遠略説が迎合論に堕していたのはそのためでした。
幕府は征夷大将軍でありながら征夷の力をすでに失っていました。権力という失うを惜しむもの。これを持つだけの存在となっていました。我国に限らず古今東西、失うものを持つ者は常に妥協を、やがては屈従を選びます。仏国大革命のさい国王が外国へ依存しようとし人民の怒りを買ったこと。清国が阿片戦争のすえ買弁勢力に左右され、太平天国の乱を鎮圧するため英軍の力を借り植民地の端を来たしたこと。すべて権力者が失うものを持っていたからでした。
合理に満ちた開国論にはこのような陥穽があったのです。合理性があればあるほど悪いのでした。
幕府には仏国派の俊秀など理性に富む秀才が台頭していましたが所詮、失うものを持つ者の下僚でした。どうしても倒幕が必要でした。屈従開国をも阻む必要がありました。すなわち理屈を超えた勤王攘夷。これでした。それが明確になり敗退の長州勤王派と尊攘浪士による勢力結集が行われたのが文久三年でした。
しかし幕府側も必死です。浮浪の徒を集めた新選組。旗本の冷や飯喰いを集めた見廻組。これらの出現も文久三年です。そう言うわたしも下士の出の浮浪の浪人です。長年押さえた吹き出るような思いがあります。命掛けで願人坊主を踊った青場幽左衛門はもとよりでしょう。いや、貴人崇拝に陥ったかに見える梅野にも似た思いはあるでしょう。元は冷や飯喰いの佐々木只三郎の思いも同じかも知れません。それが一斉に吹き出たのがこの年でした。その思いは、ばくうにんの言う無政府に近い草莽崛起へ向かい、あるいは高杉晋作の如き藩勢力割拠に向かい、あるいは無念の思いを出世に賭け叉は旧来の忠誠心から佐幕勢力に荷担し、それらが互いに混乱して渦巻となっているのでした。
翌元治元年は蛤御門の戦い。勤王攘夷派の惨敗を経て戊申の役まで六年にわたる倒幕戦争の開始となります。佐々木只三郎とわたしの斬り合いは唐突のようですが、その雰囲気の中のものでした。もはや戦国のさなかでした。これから戦いはもっと汚いものになるのでしょう。
一度縁が出来ると不思議なものです。佐々木との再会は僅か数日の後でした。見廻組の様子を探るため、虚空らだけでなく長州藩邸出入りの諜者を働かせていましたが、幕府浪士取締出役、佐々木只三郎が見廻組の幹部を引き連れて加賀藩邸に出入りする、という聞き込みを得たのです。加賀藩邸。重要な聞き込みでした。
はて、と思いましたが、考えれば新選組を預かる会津藩が高二十三万石、ほかに京都守護職の役高だけでも高五万石があるのに反し、見廻組を預かったのは新大名として高一万石を受けたばかりの浅尾藩です。費用が足る筈がありません。始めから分かっていることです。幕府から加賀藩に援助の内示があったのかも知れません。大藩に御用が下ることは珍しく無いのです。佐々木只三郎がその周旋に当たっているのでしょう。噂は根があるようでした。
思えば加賀藩邸は長州藩邸と同じ河原町。しかも塀一つのすぐ隣です。長州藩邸を制するのに絶好の立地にある加賀藩邸。これを巻き込まぬ幕府ではありません。京の風雲は急でした。
佐々木は、会津藩の京詰め重職、手代木直右衛門の実弟と聞いています。会津藩との連絡がある上、加賀藩が出動し、見廻組が加賀藩の資金を受ける。これは一大事です。日和見を取って動かぬ加賀藩を京の政争に巻き込む大陰謀となるでしょう。様子を探らねばなりますまい。笠間金兵衛が帰藩して京にいないのが残念でした。
しかし案じるまでもなく機会はすぐ来ました。数日後のこと。たまたま用件があり長州屋敷を訪ねた帰りでした。紅蘭先生の屋敷を嗅ぎ当てられてはならぬので目明かしに用心しながら門を出て、わざと三本木と反対の方角にある加賀藩邸の方へ進もうとしました。
年の暮の京都です。冷え込む中を、向かいの本能寺裏門の両側には出店が並び、暮の商品を賑やかに売っています。叫び声が行き交っていました。
その時でした。偶然に加賀屋敷から現れたのは佐々木只三郎でした。今日は他藩訪問のため黒羽二重に紺の袴。白扇を手にしていました。その後から供連れの武士が現れました。
それは加賀藩京都藩邸控、高二千石を越える、元の/
一、
- 2009/11/01(日) 20:07:46
四条河原での新選組との闘いがあって。
青場幽左衛門の身代わりにわたしが闘ったのは成り行きによるものでしたが、しかしあれからは、幽左衛門の態度は変わり、味方の扱いになりました。
幽左衛門は 五条の沢兵衛の腹心です。すね者で、座の死人の死装束と称する白絹の袷を着ていました。庶民が絹物を着るのは幕府の御法度でしたが、死装束だけは目こぼしのものでした。それを剥いだとか形見だとか唱えて着ている男でした。この不吉な男が横行すると武士でさえギョッとして避けて通ります。あるとき怒鳴って咎めた武士がいたそうですが、幽左衛門はわざと泣きながら地面に寝たといいます。人が集まって、咎めた武士は閉口したと言います。
それ以来、この縁起の悪い白衣を見て、かかわる者は出ないそうです。虚空はその弟でした。
ほんの弾みでやっただけじゃが。
いいえ。命がけのことで。よう分かっておりまする。
と言ってくれた青場の扱いで、急に沢兵衛一派の真言寺へ顔出しが出来ることになりました。前にも申しましたが長州勤王党と組んでのわたしの使命の一つは下層の真言勢力との連携達成でした。京からの長州敗退の今日、これは火急の使命でした。
沢兵衛の寺は醍醐寺の流れでした。
沢兵衛は博労の座の親方であると共に、鴨川の川筋の支配者でもありました。
川と馬は共に運送の基本の手段であり、その両方を押さえないと支配力は尻抜けになって座は力を失います。長年の争いもあったと聞きますが、おそらく川筋の支配の方が先に成立したと思われます。
河川は時によって暴れ移動してしまうので、荘園成立以来、争いのあげく荘園主や領主の支配を受けないものでした。力の空白の場所は争いようが無いので、河川や、何の役にもたたぬ高山の岩の頂は、やむを得ず古来からの勢力である天皇家直属のものとなっていました。鵜飼いの者が皇居出入りの下人であり、鮎がまず朝廷に献げられるのは、この故実を踏んでいます。したがって川筋の者は朝廷の奴婢でした。奈良と河内の境である金剛山の麓を流れる石川。あの大化の改新のおり中大兄皇子の側に立ち勝利者になった蘇我石川麻呂の奴婢の身を脱し、石川の古くからの支配者となった楠党が根強い朝廷党であったのはこのためです。楠党におとらぬ古い勢力の鴨川の支配者、沢兵衛の川座は、南朝が滅びたかに見える後も、後南朝の支えでした。
京洛の南、桜で知られる醍醐寺は真言宗の中でも山岳密教の本山です。吉野山の奥、大峰山にまで根を張った後南朝党の寺が、真言宗の中でも醍醐寺の系統に属したのは当然でした。
しかし後南朝には、淫靡で鳴る立川真言の流れが通っています。醍醐寺の支配の中にも秘密に吉野朝以来の立川真言を守り続ける寺があり、その寺こそ後南朝の残党を今日まで支えてきた太い根と言われます。
真言宗熊雲山権幣寺。
醍醐寺でも当時すでに異端となっていたらしい立川真言流ですが、沢兵衛らの一党には隠然たる勢力を維持していたこの寺です。立川真言は明治に入り全く廃れました。廃仏棄釈の折り弾圧により滅びたと聞きます。後年、憲法発布の頃でしたでしょうか権幣寺を訪ねて見ましたが、そのときは既に普通の真言寺となっており、境内は
寂れて草が茂り、人も変わって往事のことを知る人もいなくなって居りました。もはや立川真言を語り得る人も無くなると思いますから、細かい思い出も申し上げておきましょう。
文久三年師走の風を身に受けながら、わたしは長州藩邸の望みで梅野と連れになり、虚空を案内にして権幣寺へと向かいました。男女二人連れの入門が立川真言の掟でした。
高瀬川を暫く船で下って、後は町から出て山道へ掛かるため、誂えないかぎり駕篭はなく、誂えれば二朱、三朱と値がかさみます。
わたくしは土佐の郷士の娘、山野を駆け巡って育ちましたから、足弱ではございません。
と言って梅野も歩きます。寺参りですから地味な紺紬に茶繻子の帯、裾は高く白い脛をのぞかせ、草鞋は避けて括り草履の姿でした。髪は小さく固く結った島田です。虚空はもとより足達者で梅野の荷を軽々と背負っています。
権幣寺は山中ながら意外に大きい寺、と言うより庫裏や参篭所が沢山連なる巨大な寺院でした。馬頭観音、千手観音といった露座の変化仏、どれも青銅の奇怪な姿態の像が境内を取り巻いていました。
わたくしは、このお寺、好みません。
と梅野が言うのを聞いて、わたしも苦笑しました。梅野の家、土方家は禅宗と聞いています。わたしは西本願寺を本寺とする門徒です。共にこの赤塗りの真言寺は気持ちが馴れぬ寺でした。
そりゃあ、わたしも同じ気持ちだが梅野さん、今日の仕事は勤王派にとって大事な仕事だ。この寺との提携が今後の作戦を決める。嫌なことがあっても是非とも同盟を結ばにゃならん相手だ。我慢して力を貸して呉れ。
分かっております。ただ言うただけでございます。でも立川真言が何かいやらしい宗派じゃということも聞きましたし、心細いんです。離れたら嫌ですよ。
そう言って梅野は、天狗紋を染め出した曼幕を仰ぐのでした。離れたら嫌、と思いがけぬ嬉しいことを梅野に言われて、わたしは心が持ち上げられるように揺らぎました。
沢兵衛からの連絡はすでに届いており、虚空も先駆けしています。寺へ入り脇玄関へ回ると式台を通され広い廊下を奥へ案内されました。上客の扱いでした。虚空は寺の小者たちと顔見知りで、わたしたちを案内方へ引き渡すと式台横の土間へ廻り荷を持ったまま、喋りながら裏へ行ってしまいました。
これへ。
参篭所には多くの男女がいて、廊下を進む私たちを好奇の眼で覗くのでした。梅野は不愉快そうに顔を避けて歩きます。青剃りの若い僧に案内され、曲がった廊下を進み、奥の一間へ通されました。不思議な香の薫りがみなぎっていました。やや暗い部屋で、容貌魁偉な僧が座っていました。どこからか大勢の唱える甲高い読経の声が響いていました。
よう参じられた。
はい。お世話に相成りまする。
拙僧が当寺の執行でござる。委細は聞いては居るが、まず姓名、ご住所を記されよ。
はい。
示された傍らの小机の記帳を開き、兼ねて打ち合わせのとおり住所は共に長州藩邸を書きました。それを僧はじろりと見ましたが何も触れません。梅野は本名を、わたしは当時の変名、石堂清之助を書きました。これまで変名には触れないできましたが、きりがないのでここで申しておきます。石堂は母方の姓でした。古くは石動と書いたそうで、南北朝の頃は僧兵三千を擁したと言われ今は滅びて無い能登の石動山天平寺に繋がる家系でしょう。この場合の石動は、いするぎ、と読みます。白山山中へ逃れ屋敷に石堂を建てて姓とし、数家に分かれて韜晦したという伝えを聞いています。母方の石堂は絶家となって久しく、わたしの素性を探られる虞の無い変名でした。
これを。
と用意した金包を袱紗に乗せて差し出しました。長州藩邸からの挨拶金二百両。この権幣寺の真言勢力にまず金を渡す。長州藩邸の政策でした。下関の通商を支配する長州藩です。後退割拠の今も潤沢な藩金があり、逼塞となった京藩邸の謀略の資金は豊富でした。わたしたちの参篭料として三両あて。すべて長州藩邸から預かってきたものでした。
む。ご丁寧に。では、後ほど和尚にも面参を願うが、ひとまず拙僧が参篭の心得を申し上げる。
何卒よろしく。
まず、貴殿方の参篭は一夜一日と聞いて居る。されば夜は本堂で過ごすことになる。一夜一日では何も分からぬ、などということは決してない。即身成仏の一念は、時の長短で量り得るものではござらぬ。細かい行の作法はその場で言われるとおりになさればよろしい。今一度に言うても、にわかに覚えられるものでは無いによって、ここでは当寺に於ける仏前の礼法と心得だけを教えて置きましょう。真言宗の合掌をご存知か。
いえ。一向に。
では、こうなされ。左右の五指を揃え、掌をやや丸く膨らませる。掌中に空間すなわち宇宙を作る。そうそう。宇宙を包んだ合掌。これを蓮華合掌と申す。
蓮華合掌。
さよう。次に、心には、真言宗の総本尊におわす大日如来すなわち摩訶毘廬遮那と、当寺本尊たる愛染明王を念じる。念じると申しても空では念じ難いであろうが、本堂へ参じられれば分かる。よろしいか。
はい。
今はひとまず、出来るだけ念じ尽くしたならば、更にその念を心底に持したまま、口の奥を、これも蓮華に膨らませて、あー、と唱えてご覧ぜよ。腹底から吐きい出す。よろしいか。あーと言うてご覧じよ。
あー。
笑うてはいかぬよ。おかしいかな。笑うならまず笑うてしまわれよ。恥じることはない。初心はすべて、そのようなものでござる。はははは、とまず笑うて見られよ。よろしいか。そこで唱える。あー。
あー。
今度はおかしくないな。腹底から吐き尽くす時、ほのぼのとした良い心持ちとなるものじゃ。あ、の一音こそ宇宙の中の言葉の始め、言葉の親でござる。この一言を真言と観ずれば、それが自ずから真言となる。お分かりか。
いえ。
そもそも真言とは何であるかと申すに、宇宙の真相を示す言葉であって、本来は俗人の会得しがたい秘密であると心得られい。
はい。
他宗においては教えるに方便を採るが、真言宗には方便はない。大日如来の行者には真言あるのみ。真言の追求あるのみ。これが弘法大師以来の真言宗の本義でござる。
は。
よって印相、念、唱え。これを身密、意密、口密の三密行といい、その三者を併せて真言の行となる。
印、念、唱え。
うむ。姿勢、心、言葉、の三つと言うても良い。当、権幣寺の流に於いては、まず合掌を以て印相に代える。印を覚えるは容易でないにより蓮華合掌をもって印を結ぶに代えるのでござる。
分かりました。
心に持するには。愛染明王をもって八大菩薩、五大明王に代える。
はい。
あー。この一音をもって。これをもって大日経、金剛頂経の真言と陀羅尼に代える。大日経すなわち大毘廬遮那成仏神変加持経。また金剛頂経すなわち金剛頂瑜伽中略出念誦経と申す。
難しいものでございますな。
さらに行を維持するに、本堂における歓喜行をもって禅定に代える。すべて俗人をして即身成仏に導くの道でござるよ。いや、これは難しげなことを一度に申したかな。ははは。
は。即身成仏。それは聞いたことがありますが、何でも生きながら一気に仏となるのが即身成仏とか。そのようなことが出来ましょうか。
うむ。その道を開くのが立川流の行じゃで。作法もすぐには飲み込めぬかもしれんが、今回は一夜の修行故、今教えただけが出来ればよろしかろう。ご奇特なことでござる。当寺へはよく参られた。では暫くここで休まれよ。
突然の教示でしたが、態度は思いのほか気楽な応対で、執行と名乗った容貌魁偉の僧は部屋を出て行きました。梅野は正直に蓮華合掌を練習するのでした。あるいは気詰まりだったのかも知れません。ほとんど入れ替わりに先刻の青剃りの僧が茶を捧げて入って来ました。
いらさりませ。間もなくお二人の休み部屋の用意がととのいます。しばらくお待ち下さいませ。
と言って僧はすぐ出ていきました。茶を口に含むと少し変わった薫りがします。なにかの薬湯か、と思いました。梅野も少し首をかしげましたが、今この寺で警戒の必要はありません。
これは。よい備前でございますね。
はて。焼き物には暗うて。九谷なら地元ゆえ眼慣れとりますがね。でも、ざっくりとした、いい肌合いですな。
備前は、無釉焼き締めとか申すそうで。そちらのは京焼きでございます。
と梅野はわたしの手元に眼を注ぎます。
それにしても休み部屋の用意とは。
夜は本堂で参篭とのことでしたが、夜明けまで続くとは限りません。その前後は梅野と一つ部屋で過ごすのでしょうか。梅野も気にしたのでしょう。ことさらに茶碗のことなどを語るのでした。
昼食前に和尚に面参することになりました。先刻の若い僧の案内で和尚の前に進みます。真言宗では和尚は、わじょうと呼ぶのでした。庭に面した部屋で和尚は書見の途中のようでした。
よう来られた。当山の行をなさるは珍重のことでおざる。
和尚は痩せた老人でしたが俊敏な相貌の僧でした。真言宗醍醐寺の一派は山岳密教、大峰山の修験道を支配する宗派です。立川真言を奉ずる権幣寺はその傍流かも知れませんが、この和尚も若年、壮年の頃は山々を駆け巡り修行を重ねたのでしょう。気力に満ちた身のこなしでした。
まあ、こっちへおいで。茶を進ぜよう。五条の沢兵衛からの挨拶も聞いておるよ。長州藩邸におられるそうなが、長州藩の逆運といえども決してそれに終わるものではない。気を強く持ち敵方調伏を祈られるがよい。
は。
この度滅んだ天誅組も貴公らの仲間と思うが、あの旗揚げは時がようなかったのう。吉野の山中を彷徨して東吉野の鷲家口に滅んだそうなが、大峰山の山麓、拙僧らが掌のごとく知っておるあたりじゃで。せめて天誅組に行者が加わっておったらと惜しまれるの。あたら死なせることはなかったろうに。とはいえ今日はそのような話のために会うたのではないな。まあ、俗世のことは沢兵衛にまかせればよかろう。せっかく当寺に参られたからには、まずは一心に修行して当山の信者となられよ。そちらの女人もよろしいかな。
はい。
貴公は加賀白山の出自やそうな。聞いておるよ。白山は泰澄大師が千年の昔、養老元年に山を開かれてこの方、真言密教の聖地の一つじゃで。拙僧も若いおりの四度加行の時、故あって白山に赴き護摩の行を加行した。その地じゃ。懐かしゅうおざるよ。
それは嬉しいことでございます。
当山の行者は白山だけではない、全国に根をはっておるよ。われらは元中年間の大変、南朝離散の後も一の宮の皇胤を戴き幕府に節を屈したことがない。当山中興の祖、景義和尚は一の宮の連枝であった。心は今日も変わっておらんで。安心して当山に頼るがよい。一時の敗北など盛衰の一変化に過ぎんよ。息災調伏というてな。不撓不屈であればよい。沢兵衛も心を乱してはならんのじゃ。
こう言って老和尚の立てた茶が出されます。和尚の言う幕府とは足利幕府のことです。だいぶ話が古いのでした。
ほ。人里離れたこの山に居ると世の行く末が見晴らせるものよ。案外に早耳じゃよ。先月の江戸城本丸の再度の炎上の話も聞いた。幕府長年の記憶の名残が消え失せたとは天下動乱の兆しじゃのう。この年、文久三年をもって世の流れは変わったの。
はい。わたくしも左様に思うております。
何によってそう見るかな。
京都守護職、会津中將の強圧によってでありましょう。
違うな。今年春、長州での長井雅楽の切腹を知って居るかの。
知っております。
あれじゃよ。今後の天下を占う大事件よ。青史に残る大事件よ。
ははあ。
あれで長州藩は公武合体の藩論を捨て、倒幕の立場を取った。あとは騎虎の勢い、激突は免れまい。
いかさま。
関ヶ原の西軍の総大将は毛利輝元であった。あの昔に返ったといえる。長井雅楽の切腹は、韓非子の兵法にいう戦陣の血祭であろう。一軍粛然の気を生ずるの術よ。
お言葉ですが、長井雅楽の航海遠略の説は、重役、藩公の同意を得て藩論として天朝、公儀へ提出したものと聞いております。策を廃するにせよ切腹という藩の処置は過酷のようにも思いましたが。
なんの。航海遠略説は公武合体開国の策。長井雅楽はこの策を引っ下げて策士として世に踊り出た。誰が同意荷担したにせよ、策を編出した根元は当人じゃ。策が破れたときは元凶は死ぬ。古今東西同じじゃよ。策をもって世に問うとは英雄の勝負よ。藩の処置もへちまもない。公平も過酷も無い。庶民の日常とは別のことじゃ。荷担者もいるなど泣き言は言えぬ。石田三成の斬首に等しい。
まことに。長井の切腹は八才の娘が三つ指突いて見届けたと聞きました。
うむ。
また、長井は見事腹一文字に切った後、背後の逆さ屏風に向かい、断ち切った腸を取り鮮血をもって、
死にて行く我が身はさらに惜しまねど ただ思わるる国の行く末
と辞世を書いて、正面を向き首脇を掻き切り、立合の役人は吹き出る血に朱に染まったとも聞きました。
ほ。無念腹とは言え侍の最期じゃな。天っ晴ではあるが、これが藩の公式の処置よ。一部の動きではない。長藩一藩が関ヶ原に返り、倒幕の立場をとった。挙藩勤王。挙藩倒幕。これよ。土佐の武市半平太、薩摩の有馬新七らが夢に見たことよ。ほほ。これで来年あたり戦かの。長州倒幕策の張本は吉田松陰じゃった。松陰の策を継ぐ者は義弟の久坂玄瑞と聞いた。その久坂が航海遠略の藩論を倒し、みごと藩を倒幕に逆転させた。今や勤王倒幕の動きは皆これから発して居る。楠正成の千早城に匹敵する快挙と言える。しかし南北朝の歴史を見ても天下の策は容易に成るものではない。北条の大群に包囲された千早城のごとく長州藩も孤立するじゃろうな。あとは足利高氏の如き大勢力の寝返りがあるか。まあ久坂らも死ぬであろうかの。南北朝に等しい動乱は後々も続くじゃろう。
足利高氏のごとき大勢力の寝返り。
驚くべき和尚の予言でした。翌年の禁門の変に始まり、征長の役、西郷隆盛による薩摩藩の寝返りと続く倒幕戦争を言い当て、そして恐らくは西南の役まで予言したのです。後南朝を長く守り続けた権幣寺の和尚の南北朝史による言葉でした。
しかしその後は、は、は、は、と笑ったのみで、
これは余分なことまで言うたかの。まず今日は、真言に引き出される人の心だけ見て帰ればよろしかろう。
と和尚は言い、後は四方山話となり、わたしが長州藩からの挨拶を取り次いだのみで、立ち入った話はなく面参は終わりました。しかし退散しかけたとき、和尚が声を掛けてきました。
いま一言申しておく。当山での行は意外なことも多かろう。奇怪に思うかも知れんが、たじろがぬがよい。そもそも人の心、男女の本音は幽霊のように奇怪なものじゃ。したが本音は真言に通じ真言は本音を炙り出す。そして真言の法力と歴史は表裏のものじゃよ。南朝の戦いは人の本音を集めてのみ幕府に抗することが出来たのじゃ。
はあ。
今回、勤王の業を本気で働こうとするのなら、沢兵衛ら博労の組と力を合わせることは、大いに良い。博労の組がどのような力をはらんでおるか、まだ知るまい。これを知って策を立てるのが、長州勤王派の大事となるであろうよ。これを帰って報告するが良い。これが今回の何よりの手柄となろうよ。
見送る和尚の韜晦めいた話は含みの多いものでした。しかし楠正成は土着勢力として立ちながら天朝の命を奉じたために敗れて戦死する悲運の武将です。そして千早篭城に似た防長二州割拠はむしろ高杉晋作の主張であり、久坂は防長草莽論でした。高級官僚の出自の高杉が禁門の変に参加せず巧みに牢獄に逃れて一藩割拠に進むのに反し、奥医師とはいえ御坊主の出身の欝屈から師松陰の論を捨てず、真木和泉の草莽崛起の策に殉じて長州兵を率い蛤御門外に戦死する久坂。
和尚の言は不吉な暗示でもありました。
ともあれ長藩との連携の話は届いているようで、勤王派に好意のある和尚の態度は一安心です。さすが後南朝の流れを組むという権幣寺でした。後は、わたしと梅野が立川真言の信者として寺に融け込み、往来することが残る任務となるのです。
面参が終わると先ほどの執行、容貌魁偉の僧が再び現れ、
こう来られよ
と奥の廊下を進みました。そろそろ昼となっておりましたから食事かと思ったのですが、違いました。さらに奥の一段高い別棟へと案内されました。宝物殿でした。
さ。行の前に、まず当山の曼陀羅、および秘宝を拝まれよ。あの正面に掲げられた軸が当山の大曼陀羅じゃ。本堂にはこれよりずっと大きいものが御座るがな。曼陀羅については知らるるところがおありか。
いえ。いっこうに。
左様か。まず曼陀羅の意義を一口に申せば、御仏の世界、となろうか。右にあるは胎蔵界曼陀羅、左に掛かったが金剛界曼陀羅と申す。それぞれ大日経と金剛頂経によるものでござる。弘法大師が唐から帰られ朝廷へ差し出された御請来目録にもこの両曼陀羅、七幅一丈六尺のもの一対があげられておる。
は。
ともに大日如来と、これに従う多くの御仏が描かれておる。この、多くの御仏ということが曼陀羅の意味であってな。真言の世界を現すものじゃ。この世に瀰漫する尊いものが単一でないことを示す。
ははあ。
真言宗はそのようなものか、と思いました。わたしたち門徒は、阿弥陀如来を不可思議光如来と奉じ、唯一絶対の存在と信じ、その他は総て否定するのですが、真言宗は多くの仏を信じる教えでした。僧はわたしの戸惑いを感じたのか、言葉を変えました。
ははは。また難しい事を申したな。拙僧はついこうなる。さ、ずっと右へ進まれよ。
このとき梅野がハッと立ち止まりました。なんと。目前にあるのは世に聞く歓喜仏の図絵でした。
漆黒の顔の、眼の丸い不思議な相貌の仏です。
一見、仏一体だけの踊る画像。そう見えるのですが実は右手に金剛鈴を振りつつ、左手では胸に肉身豊かな女仏を抱いており、女仏は恥じて背を見せ、しかし左向きに白い顔を差し出して驚嘆恍惚の表情を露にし、立ったまま猥褻な姿態で交合に応じている怪しい秘画でした。
続いて出土品とみえる彫像があり、これもまた秘画に劣らぬ奇怪な歓喜仏で、女仏が男仏の腰に抱きつきながら身を曲げて交わっている姿でした。
は、は、は。驚かんでも良い。これらは唐土より伝来のもの。御仏への法悦を示す、五秘密曼陀羅の一種と考えられるものじゃ。難しいことを言えば理趣釈経に言う二根交合五塵成大仏事を表す。よく見られよ。
大量の秘画、秘仏でした。それも彩色の、驚くほど露骨なものが多いのです。やはり立川真言の寺でした。使命を帯びた身の逃げることもならず、僧に促されて次へ進みながら、梅野は体を固くしています。
しかし、思えば梅野は土佐の容堂侯に仕え寵愛を受けた侍女でした。容堂侯は名うての遊蕩児です。そうでなくても高貴の側近に仕える女は好色の玩弄物となるのが運命です。長州藩邸の侍たちの噂は耳に入っていました。
女郎も及ばん色技を梅野さんは容堂侯から仕込まれちょるじゃろうのお。あの取り澄ました色白の側で匂いを嗅ぐと、たまらん気分になるのう。
容堂侯に仕え一年の梅野、あられも無いことは事実と思う他ありません。女に飽きると衆道に耽るか、飽きた女の身を無道の玩弄に遊ぶのが貴人の常です。あの土佐藩邸に泊まった朝、容堂侯に従う二人の美女、梅野ともう一人を見たのを思い出します。二人を取り替えながら心と体を玩弄する容堂侯の手を免れ得たはずはなく、手の記憶は足腰に染み込んでいるでしょう。とはいえ日常は誇り高く、教養も人に劣らず、引き締まった身のこなしの美女の梅野です。しかも容堂侯から捨てられた女の梅野であり、わたしは土方楠左衛門から梅野の身をやると言われている男です。固い表情をし、おくれ毛を見せて俯く梅野と並んで秘画、秘仏を見るのは奇妙な気持ちでした。
これを見られよ。
執行の僧が示したのは台に乗せられた人形の頭でした。美しい彩色ですが異様な容貌の美女の顔です。
これは髑髏本尊と言うて、あだし野の千人の髑髏から千の骨頂を集め、これを骨として、そくい、膠を施し彩色したもので、真言立川流で行う秘法の行の本尊じゃ。慣れぬ人は不気味に思うかも知れんが決して怪しいものではない。般若を表す。般若の一語は知恵を意味すると共に、母や女人をも意味する。その般若の迷いの部分を表す女仏を、だぁきに、抱尼という。その抱尼天を本尊としたのが髑髏本尊。鬼女般若の面と同じものでござる。
ははあ、般若の迷いの部分。
さよう。迷いを解き願望を成就の立川流の秘法はいずれ伝授される。あの抱尼曼陀羅を見られよ。
横に掲げられた抱尼曼陀羅。女仏と交合する主尊を中央に、抱尼の妖しい裸形の姿態。これが無数に描かれた曼陀羅でした。
はは。抱尼、抱尼と申すが、それは俗字。正しくは、それ、その札にあるとおり咤枳尼と書く。無明の存在を表す梵語でござるよ。
と、僧は真面目な顔で、自分が言った事を訂正するのでした。
こうした秘密曼陀羅、秘宝拝見の後、もう人が居なくなった食堂へ入りましたが、用意が出来るまでの間、まだ難しいことが続きました。
さて。続いて十三仏の真言を教えて置こう。と言って一度に覚えられるものではない。読んで置かれれば良い。これを差し上げる。ただ、真言の総本尊、大日如来の神呪は先ず覚えられるがよい。
はい。
それに今一仏。ご自分の守り本尊を選んで、その呪も覚えるのじや。呪を唱え立川流の印を結び印呪揃えば、同呪の者は見知らぬ者といえども何時なりとも、たちどころに組となって助け合う。これを同呪の誓いと言う。
同呪の誓い、ですか。
さよう。仲間は全国あらゆる処に居る。力強いものじゃ。印相はいずれ教えるが、まず呪を覚える。これが立川流の一歩じや。ご覧じろ。
渡された覚え書きを見ると、不動明王を始めとして釈迦如来、文殊菩薩など十三の仏と、それぞれ別の呪が書かれてあります。いつか伏見の禅寺で鯉を持参した時、おきゃあが叫んだ呪と同じ種類のものでした。
さ、いずれの本尊を選ぶかな。
はい。では虚空蔵菩薩を。
と答えたのは、おきゃあはともかく、虚空はおそらく同じく虚空蔵菩薩を選んでいるであろう、同呪が好都合、と思ったからでした。続いて梅野も同じ答をするのでした。
虚空蔵菩薩の呪はこうじゃ。のうぼう あきゃしゃ きゃらばや おんありきゃ まりぼり そわか。ははは。覚えられまい。当然の事。まず読んでおかれよ。
十三仏真言教授の後は饅頭と木ノ実と茶の簡単な昼食で、後は解放されて休み部屋へ入りました。山中のことで師走の寒気は強いのですが、炭火を大きく盛った火鉢が置いてありました。ここで今の呪を繰り返して覚えながら梅野と気詰まりな時を過ごします。寺内には多くの参篭者が居るらしく、どこからか読経、鉦の音、話声が聞こえますが、二人の部屋へ近付く気配はありません。梅野が突然耳を立てて、
あ。大日如来の呪ですね。
なるほど遠くで、覚えたばかりの大日如来の呪が聞こえます。
おん あびらうんけん ばざら だとばん。
甲高い声が繰り返されていました。虚空蔵菩薩の呪も聞こえます。他の聞き取れない呪も混じっています。梅野は十三真言を書き留めた紙を広げ、読み返すのでした。
あ。
どこかで唄も聞こえました。女の声です。あれは、あの唄は。おきゃあが伏見の禅寺へ鯉を持参してくれたとき唄い、居丈高だった寺男の猫兵衛がたじたじとなった、あの奇妙な唄でした。
鳩と とんびと 雉と燕と雁金と 鴬の鳴声は くうくぴいひゃらけん はっ ぴいひゃらけんの けんとぉけん じゅくじゅく つんぐり ほうほけきょ あっち向いて そりゃ何じゃ つんぐり むんぐり きゃぁ
嫋々とした声でした。どっと叫び声が続きました。ああこれは。やはり立川真言で何かを意味する唄だったのです。あの猫兵衛も寺男の仲間です。この唄を唄う者に太刀打ちできない秘密の意味があったのでしょう。伏見稲荷でもこの唄をブイと一緒に聞いたことがありました。
真言宗熊雲山権幣寺。
なにか南朝以来の秘密の勢力がこの寺には潜んでいると思われます。長州藩がこれと連携を結ぶのは、やはり緊急のことでした。
こんなことで意外に早く時が過ぎ、やがてまた夕食となります。ゆうじき、と言うのでした。
庫裏で多勢と共にの夕食でした。昼は饅頭と茶が出ただけでしたが、夕食は十分なものでした。もちろん精進料理ですが一椀の般若湯も付いておりました。白い酒で、お手元徳利さえ置いてあります。
最初に梅干しが出、そして菓子が出たのは変わっていました。これは甘いもので、梅野が感に堪えたように言いました。
いい匂いですね。
これは天竺の干し醍醐じゃ。
と誰かが説明していました。後には少量ずつですが、高野豆腐と豆と青菜の和え物。麩を辛く油で炒ったもの。干し筍と蓮団子の汁。そして茸の朴葉焼き、じゅんさいの酢の物、湯葉と芋の油煮、と旨いものが続きます。間に甘い汁粉。きくらげの塩漬け、揉み海苔と山葵を乗せた大根下ろしが出て口直しの後、豆腐のあん掛け料理。蕎麦椀。茸と山菜と辛い青唐辛子の揚げ物が沢山。干し大根の納豆がらみ。そして漬け菜、ごぼうの味噌汁、匂いのよい薬めしが出ました。思いがけぬ大御馳走でした。他宗の食事の質素とは丸で異なるものでした。最後に干し杏が出ます。梅野は健啖で全部を食べました。
食べ過ぎとは思いましたが、おいしいものですから。
とは梅野の述懐でした。その後薬湯が配られましたが、昼間の薬湯よりさらに香りの強い、どろりとしたもので多量でした。この食事の後この薬湯を飲むと、不思議な、うっとりする気持ちになるのでした。
冬のことで日はとおに暮れ、ひと休みの後、本堂での夜の三密行となりました。
広大な寒い本堂でした。正面には宝冠を頭にした大日如来、すなわち毘廬遮那仏の大尊像が香煙にくゆっています。
大日如来の右に並ぶ像は、花を手に腰をくねらした彩色豊かな愛染明王、左は孔雀明王の片足を上げ智拳印を結んだ像。さらに左奥には二童子を従えた不動明王の憤怒像が、眼は天地眼、左右の目玉を上下に見開き、倶梨伽羅剣を手にし、火炎を背にして灯明に揺らいでいました。その脇壇には虚空蔵菩薩、普賢菩薩、文殊菩薩などの菩薩像。千手観音、馬頭観音などの変化仏。帝釈天、毘沙門天、聖天、水天などの一二天像。その他数え切れぬ尊像が並んでいました。
これら尊像の前に集まったのは先ほど庫裏にいた多数の男女でした。知るも知らぬも、気ままな男女の組み合わせになるのでした。梅野にも知らぬ男の声が掛かりましたが、梅野はわたしに固く付いて離れません。やがて本堂の扉が閉じられて結界となります。
驚くほど多くの僧が現れて着座しました。執行の先導による重々しい儀式が行われ、終わると僧達が黒い群れとなって去ります。続いて参篭者の行が始まるのでした。
足袋は脱がれよ。
と声が掛かりました。命じられるまま足袋を脱いでみると、なるほど、心が軽くなります。
香の煙のくゆるなか、手を蓮華合掌に、先ずは開経偈です。
無上甚深微妙法 百千万劫難遭遇
我今見聞得受持 願解如来真実義
次いで般若心経五巻を唱えることになりました。速い唱えでした。が五巻となると容易には終わりません。大勢の声が高く低く荘厳に響きます。その声を聞く内に次第に夢のような気持ちとなるのでした。
いつの間にか護摩壇で和尚による護摩供が始まり、燃える火が仏像の影を揺らめかせ御仏をもあかあかと揺らめかせます。大勢の男女も顔形一体となって揺らめくのでした。いや、光のためだけでなく皆が体を前後左右に動かしているのでした。わたしと梅野だけが逆らうことはできません。同じように体を動かします。形だけの積もりでしたが動かすうちに次第に不思議な心地となって来ました。寒さも感じなくなっていました。
やがて皆が唱える般若心経は崩れはじめ、度一切苦厄だの、色即是空、空即是色だの、不生不滅、不垢不浄だの、のくたら三みゃく三菩提、など勝手な部分や、十三真言の呪を無意識に唱えながら男女が抱き合って体を動かすのでした。裸足を絡み合わす姿も眼に入ります。
如何かな。
と声を掛けられ気が付くと、あの容貌魁偉の僧が側へ来ていました。
それそれ、皆と同じに抱き合われよ。それが当山の三密行のうちの身密行じゃ。体が動くとき意密も伴う。口密も伴う。男女の心の相合するときこそ禅定の法悦が生じる。これがこれ、即身成仏の入り口に他ならぬ。まず行である。それ抱き合われよ。同呪の者が次々と法悦に交われば、同呪の誓いはますます広がる。
この寺に融け込む使命を思えば、この僧に逆らうことは出来ません。それに、あの薬湯のせいでしょうか。夢のような気持ちは強くなっていました。梅野も同じと見え、二人はふらふらと抱き合いました。梅野の体臭が身に絡まり、思わず強く抱きしめました。そうして体を動かすとまるで歓喜仏になったようで、成るほど即身成仏の心地がするのでした。梅野の乳房をま探り小さな乳首を摘み体を揺すり合いました。紺紬からこぼれた梅野の白い膝は、山野を駆け巡って育ったと言っただけあって太い丈夫そうな膝でした。互いに陶然となり、口にはあらぬ般若心経の句を唱えました。いつの間にか蝋燭は消え尽き、闇の中に護摩の火が燃えるだけです。
般若、般若、般若、般若。
と暗い中で誰かが声高に祈るのが聞こえました。呪を唱える声も混じります。その声に連れてわたしたちの体も揺れます。梅野と二人だけならどう崩れるか、と思いましたが大勢の中です。心のどこかは覚めていたのでしょう。梅野もその先は身を固くしていました。肘を締め、それ以上の手は拒むのでした。わたしは不満でしたが梅野は意外に力も強いのでした。そのままの姿勢で、
依般若波羅蜜多故
と口に繰り返す一句が頭の中を飛び回るように響くのを感じながら、体を揺すり合いました。護摩の火の光に御仏たちの像も動きます。
やがて香煙のくゆる本堂内は騒然と乱れはじめ、結界のはずの扉も誰かが開け、抱き合いながら外へ流れ出る人影も見えます。わたしの心も気持ちよく乱れ緩んでいました。おのずから痴心も生じます。これを拒んでいた梅野がそのとき突然、
いやっ。
と声を上げました。意外。はっ、とわたしは手を引きます。なんでしょう、我に返ります。いかん。梅野はガバと身を起こしました。まるで火を当てられたようにキッとなり、また小さいが激しい声をあげました。
御前さまっ。
ヒッと泣くような悲鳴も上げ、いきなり立ち上がると走り去ります。誰かの足を踏んだとみえ、ぎゃっと言う声があがりました。
あっ、梅野さんっ。
すぐ後を追いました。なにせ任務の途中です。放置することはできません。失態でした。
それにしても、御前さまとは。
追っていくと梅野は庭の石灯篭の横に、霜に構わず裸足で立っていました。近くにいた男女が驚いて避けています。わたしが近寄ると。梅野はサッと白いものを閃かせました。何と。懐剣でした。梅野がわたしに向けて懐剣を構えているのでした。
御前様とは大名に対して言う言葉です。梅野にとっては容堂侯以外には無いでしょう。
わたしの許へ来る気のはずの梅野が、自分を捨て二度と会う事もない好色漢を貴んで、わたしに向かい身を守っているのでした。しかも懐剣を抜くとは容易ならぬことで、対等の相手にすることではありません。ひとたび貴人に愛玩された女の心は元へ戻らぬものでしょうか。狂乱の顔でした。どうすることが出来ましょう。これほどの屈辱は初めてでした。撫然として本堂へ戻ります。
は、は、は。やられたな。よくあることじゃ。これも立川真言の修行よ。気を落とされるな。
言葉に振り返ると笑っているのは、あの執行、容貌魁偉な坊主でした。
ははは。これから後は、あの女人を立川真言の覚悟に立ち帰らするが貴殿の勤めとなろう。心配無用。同呪の一同が助力する。立川真言にはまだ多くの秘儀奥義がある。末寺には尼寺もある。男女揃うて周りの助力は役に立つものよ。あの女人と貴公が法悦の交わりの日は必ず来たすゆえ心強く思われよ。
見返ると梅野は寒気の中、青ざめた顔で立ち尽くしています。今は闇に向かって懐剣を構えているようにも見えます。本堂から洩れる炎の光が揺れ、それに照らされる梅野の顔は、あの抱尼天、髑髏本尊のような異様な美しさで光に揺れ動いていました。
髑髏本尊は鬼女般若と同じ、とは執行の僧の言でした。かつて加賀の面師に聞いたことがあります。
般若の面ちゅうもんな、恐ろしさの中に悲しみを湛えとらんでは名品とは言えん。おとろしいだけでは駄物や。あの憤怒は、悲しみ極みのもんや。泣いとるんや。
真言は本音を炙り出す、という和尚の言葉を思い出しました。梅野の心も無明の闇にあるのでしょう。その梅野の本音をかいま見たことも、立川真言の行の一つかも知れません。
二、
- 2009/10/16(金) 20:07:11
ばくうにんと言う赤蝦夷人の無政府の論は、重農、重商の説とは別のようですが詳細は判明しません。しかし勤王の立場にあった当時のわたしには、聞き捨てならぬ言葉でした。
今の皇室制度を確固と戴く今日、無政府と言うと皇室に叛く事のようでありますが、その時は違います。当時の天朝は、有り難いけれど至って弱々しいものでした。天下の政権を執るのは幕府です。無政府とは倒幕を意味するのでした。勤王倒幕です。それをまた一君万民とも申しました。草莽崛起による倒幕。その後のことを明確に考えている者はいませんでしたが、一君万民による夢のような、いわば無政府が漠然と思われていたと申せましょう。無政府も何等かの政治組織はあるわけですが、私心を捨てた草莽の志士が集えば虹のごとき理想境ができるような気がしていたのでした。
近年の自由民権も、無政府党も、根は遠くこの頃にあるのです。いきなり出てきたものではありません。奥州三春藩の勤王の草莽であった河野広中が福島事件を起こしたのもその一例、わたしが後に無政府党となったのも心では首尾一貫している積もり、と申し上げておきます。
その草莽崛起による倒幕は翌年の禁門の変、蛤御門の戦いで挫折します。草莽崛起論の志士たちは天誅組の乱と禁門の変でほとんど死亡、全滅となります。
その後の勤王攘夷は、高杉晋作、桂小五郎らの割拠論や雄藩連合の意味となるのです。後に維新の三傑と言われた、西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允の三名は、出身はともかく、いずれも草莽として活躍したのではなく藩官僚であったことを忘れてはなりますまい。伊藤、山県、黒田らはその下僚です。勤王倒幕はそのように変質をいたしました。もう一つ畏れながら申しますと、明治維新は幕府だけを倒したものではありません。あの天朝をも廃止したのです。今の皇室制度は有り難いものではありますがも、草莽が戴いた昔の天朝とは別のものであります。
したがって御一新を語るには、どうしても翌元治元年の禁門の変の前後を語らねばならぬのですが、その前に今少し、文久三年の暮れにいたる、わたしの身辺の思い出をお話ししておきましょう。



