一、
- 2009/10/01(木) 20:04:10
率爾ながら伺っておきましょうね。お前がたは夫婦になるお人と思うてよいのですか。
と言い出したのは紅蘭先生でした。
えっ。と不意を打たれて梅野は赤くなります。わたしも慌てずにはいられません。
いや、その。とわたしが逡巡したことに救われたように梅野は答えました。
いえ。そのような身の上の者ではござりませぬ。
ほ。そうですか。それならそのように致さねば。
と紅蘭先生はすこし訝しげに、わたしの方を見るのでした。
そうですか。なんでも、土方楠左衛門殿がさようにお決めと、藩邸のお人から聞いた故のこと。よしないことを申しました。許して下され。
紅蘭先生もこのような事柄は不得手の質のようで、困ったように黙ります。冬とはいえ温かい先生の座敷でした。
梅野はわたしが来た翌日から塾内に住み込んでいたもので、この日は木綿紬に黒繻子の帯という内弟子姿でした。しかし贅沢な衣装以上に梅野にはこれが似合い、匂うような武家娘の美しさです。もの惜しげに紅蘭先生は梅野とわたしを見比べます。嬉しい気はしますが、すこぶる閉口しました。梅野も同様らしく、黙ってあらぬ方を眺めています。これはたまらぬ、と思ったときでした。
お客様でございます。
と顔を出したのは、これも内弟子のお島さんでした。
ほ、お客かえ。どなた。
通詞の丸岡さまでございます。長崎からの御帰りで、ご挨拶とか。
丸岡さん。それは珍しい方。丁度よい。これへ御通し。
わたしは遠慮しましょうか。
いえ。かえって良いのです。御引き合わせしましょう。御役にたちますよ。星巌の古い御弟子です。加賀の人とも付き合いがあるはず。
姿を現した長崎通詞は和蘭陀くさい姿ではなく、きちんとした着物姿でした。旅姿でないのは京へ帰って日が経っているのでしょう。髪は月代を剃らず大髷に結っておりました。挨拶の後すぐに口調がくつろいだのを見ると、近しい弟子だったのだな、と思いました。
そうですか。大聖寺藩の方か。
丸岡は名のとおり丸い顔をした男で、初見のわたしにも気さくな人物でした。
はい。下士の出身です。
はて。わたしも大垣藩の下士の出身ですよ。星巌先生も紅蘭先生も大垣の近くの村の御出身なもんで、若い頃に拾って頂いて弟子になった者です。先生の弟子がいつの間にか蘭学の方へ行ってしもうて申し訳ない。
それは仕方がありませぬよ。通詞のお家に養子になったんじゃもの。綺麗なお嬢様に見染められたか見染めたかなされて。のう丸岡さん。
いや、これは敵わん。その辺で紅蘭先生、こらえて下さい。ははは。
と丸岡は打ち解けます。そのとき、お島さんが小膳を運んで来ました。酒と嘗め味噌と香のものでした。紅蘭先生が銚子をとって慣れた手付きでお酌をするのでした。丸岡は恐縮します。
どうぞ。まあ、お一つ。
や、これは。ぎやまんの盃ですな。
星巌が手に入れたものですよ。長崎の貴方には珍しくもないでしょうが。
いや、いや。これの事を、ぐらす、とも申しますが、良いの、悪いの、いろいろあります。これは古渡りぎやまんではありませんか。色が透き通って冷たい。しかも金欄手だ。焼き物の金欄手はいくらでもありますが、ぎやまんの金欄手は珍しい。これはいい。和蘭陀屋敷でも仲々これだけのものは使いませんよ。
ではまあ、引いて下さいませ。あなたもお一つ。
と紅蘭先生はわたしにも別のぎやまんを渡して酒を注いでくれました。先生の分と、盃は三つあるのでした。梅野とお島さんは控えていました。丸岡が先生に酌をします。
酒もいいが、これで葡萄の酒でもあれば、詩となりますな。古渡りぎやまんは水晶と鉛を溶かしたものです。唐詩で夜光の盃というのがこれ、ぎやまんですよ。
と丸岡は喜んで盃を重ねます。下女が別に銚子を二本運んで来て、お島さんが取り次ぎました。
さあ、重ねて下さい。
は、は、は。昼間からこれは御馳走になります。
なに、星巌がいればいつもこうでしたよ。
そうですな。先生が逝かれてはや五年ですね。早いものだ。ああ、もっと頂いてよろしいですか。
どうぞ、どうぞ。わたくしも嬉しいゆえ、頂きます。梅野さんあなたもどうですか。差しましょう。
いえ。
と梅野は遠慮しましたが、女先生の紅蘭女史に勧められる気易さから、盃を受け取ります。
これは。お島さんにはわたしが献盃しよう。
と丸岡も如才がないのでした。座は思いも掛けぬ成り行きで賑やいで来ました。
いや、この盃は実にいい。唇に当たる感じが鋭くて気持ちがいい。さすが古渡りぎやまんだ。西洋人は玉石を非常に珍重しますが、その玉石に、だいやまんと、という夜光の石がありましてね、切支丹時代にその言葉が訛ったのが、ぎやまんです。ははは、これは実にいい。夜光の盃だ。貴公も一つ。
と丸岡は長崎通詞らしく言葉の講釈を言って、わたしにも盃を廻します。わたしの盃は紅蘭先生に廻っていました。紅蘭先生も弱くはない様子でした。折から隣家の昼稽古でしょうか、弦歌の響きが聞こえます。
丸岡さん。長崎の様子はどうですえ。
はあ。長崎は無事です。というても、いろいろありますが。長崎奉行所の往来は盛んですよ。幕府の長州敵視が強まった様子ですね。天誅組も生野銀山も、みな長州が糸を引いたと見たらしい。まあ、事実でしょうがね。
そのようですね。生野銀山の旗揚げも、長州へ落ちていた七卿のうちの澤宣嘉卿が首領と聞きました。
と、わたしが合い槌を打つまでもなく、丸岡は事情に通じていました。むろん幕府側の知識です。この六月、わたしが男山山麓で負傷し伏見の禅寺に潜んだとき、天誅組の首脳は淀藩城下で小笠原図書頭を狙って果たせず、揃って長州へ向かっています。大和五条での天誅組の代官所攻撃はその二ヶ月後でした。長州藩邸にあった勤王党の軍師真木和泉守の指揮からは離れた一挙でしたが、天誅組に長州から資金が出たと見るのは当然でした。
他方、生野銀山の挙兵失敗は十月半ばのことでした。まだ一月ばかり前のことで詳しくは分かっていないのでしたが、その首領が長州藩三田尻の招賢閣を出た澤宣嘉卿であることは広く知られていました。首謀者は平野次郎国臣、真木和泉の愛弟子です。
平野次郎が捕らえられたそうですね。
そうらしい。この三月、筑前の牢を出たばかりですな。
と丸岡は長崎通詞ですから九州の様子には詳しいのでした。
平野さんはよう知っておりますよ。安政の獄の前に薩摩の西郷吉之助どのに連れられて星厳に会いに来られて、後しょっちゅう見えた。梅田雲濱どのにも気に入られて、志士通商の仕事の後を継いだお人ですよ。商才がありました。面白いお人です。
そうそう。志士としても古強者ですな。歌才もある。
平野次郎国臣。黒田藩の足軽の家に生まれて不遇でしたが勤王の志は厚く、学識も抜群、しかも見事な歌人で笛の名手でした。有名な歌は、
わが胸の燃ゆる思ひにくらぶれば煙はうすし桜島山
国臣が使命を帯びて鹿児島へ潜入した時、すでに中堅政治家となり慎重策を取っていた大久保一蔵に体よく薩摩を追われた折の歌といわれます。
ああ。これまでは捕吏に狙われながら難を逃れて来たお人でしたが、今度は命が無いかも知れませんねえ。
と事件に慣れた紅蘭先生も暗然とします。それをよそに隣家の弦の音は高まります。紅蘭先生の家は何といっても三本木の色町の真ん中でした。先生も客を楽しませようと話を変えます。
葡萄の美酒、夜光の杯と揃えば唐詩になるが、残念でしたね。ほほほ。葡萄の酒はわたしも頂いたことがありますが、長崎ではそればかりですかえ。
いや、そうでもないが、珍しくはありません。葡萄ざけも国によっていろいろありましてね。私は今度、おろしやの葡萄酒を飲む事になりそうですよ。
おろしや。
蝦夷地に箱館と言う処がありましてね。近いうちにその地へ参ります。おろしや人の耶蘇坊主と交渉する用向きです。
それはまた難儀な。
と話はまたも難しくなり紅蘭先生は同情しますが、わたしは思わず横から口を出しました。耶蘇と聞いて黙っていられなかったのです。
蝦夷地にも耶蘇が来ておりますか。
居りますとも。今や国中が耶蘇だらけですよ。箱舘には蝦夷奉行が居りますが安政年間におろしやとも和親条約があったでしょう。あれで開港があって、りっぱな夷人の居留地ができていますよ。おろしや人の礼拝の為という名目で、おろしや耶蘇の坊主も来ておるのです。もっとも坊主というても毛だらけ髭もじゃですがね。
ほ、会うた事があるのですか。
はあ。おとどし、文久元年の夏ですな。調べごとで蝦夷地へ行ってこの坊主にも会うとります。
やはり、赤蝦夷ですか。
ははは、赤蝦夷というても赤毛ばかりではない。この坊主は黒髪黒髭じゃったように思います。ただし見上げるような大男ですよ。
そうですか。やはり耶蘇をわが国に広げようとしておるのでしょう。
もとより。耶蘇は皆そうです。にこらい、と言う名の男でしたが、名のとおり、にこにこと笑い顔を振り撒きながら箱舘の者らと付き合うておる様子でした。言葉もおぼえ、寺の説教まで聞き歩いて調べておるようです。
ははあ、様子を探っておるのですな。そのような振る舞いに及んで、斬る者はおらんのですか。
さあ。夷人も仲なか用心深いし、なにより奉行が問題を恐れて警戒を怠らんようです。
どこでも役人は皆同じですね。やはり長崎や横浜同様、夷人横行ですかね。
そう。えげれす人も、ふらんす人もおりますよ。
おろしや耶蘇といわれたが、耶蘇にもいろいろあるそうですね。
後年、明治となってからわたしも耶蘇との付き合いが深くなりますが、当時は一向に知らぬ問題で、だれもが知識はこの程度のものでした。このとき話に出たおろしや耶蘇の坊主、にこらいと言うのは後に神田駿河台に例の露西亜正教の大堂宇を建てた、にこらい主教で、後には親しい知人となります。
善い国 あります
たいそう 遠方
みんなが 行きます
とっても 遠方
という聖歌のつもりの歌を教えてくれた主教です。だがこの時は怪しからぬ敵と思っただけでした。
はあ。あれで耶蘇も宗派が違えば仲が悪いようです。
まあ、耶蘇にも違う宗旨がございますか。
と尋ねたのは梅野でした。
ありますとも。大きい分かれは二つありましてね、一つはいたりやの地ろうまにある大教会の派で、かとりっく、と言います。もう一つ、ぎりしゃの地こんすたんちんのうぷるという処にあった大教会、隣国のとるこに負けて後はおろしゃへ移ったのが、おろしや耶蘇で、おるそどっくす、と言いますな。もとは一つじゃったが、千年の昔ろうまの皇帝が東方、こんすたんちんのうぷるへ都を移した時に二つに分かれたそうです。大教主も皇帝に付いて東方の都へ移った為、おるそどっくす、つまりおろしや耶蘇のほうが元々本家で位は上らしい。じゃから自分達では、おるそどっくすを、正教、と訳して名乗っておりますよ。しかし後でろうまの大帝国も東西二つの帝国に分かれて、東西大教会の争いも大変な歴史があるらしい。わたしも耶蘇の詳しいことは知りませんがね。
まあ。見た目で区別が付きましょうか。
付きますとも。おろしや耶蘇の坊主は今も言ったとおり髭もじゃで、ろうま派は髭無しです。それに耶蘇の印は十字の印です。これを教会の屋根に立てたり、胸飾りにしたりしていますが、その十字印が、おろしや耶蘇は縦横の長さが同じ、ろうま耶蘇は縦の棒が長い。だから一目で分かりますよ。
だいぶ歴史が違うのでございますね。
そうです。攘夷の手だてとして耶蘇を攻めるとすれば、そこらが攻め口になるかも知れませんな。おっと、重ねてこれは。酒が旨いな。
してみると攘夷のためには耶蘇も研究せぬといけませんね。
無論そうでしょう。とはいえ、ですよ。こうして、ぎやまんの盃で酒を飲んで平気なんじゃから、単純に夷人横行とか、攘夷、攘夷というのも妙なもんですがね。
と丸岡は急に話を変え、はっとするようなことを言いました。これは。丸岡の本心は開国でしょうか。勤王攘夷の先達、星巌先生の弟子といえども、やはり長崎通詞ともなれば少し違うのでしょうか。
でも、それは別でしょう。昔から唐物、らしゃ布なんど異国の物は珍重して使うています。それと攘夷は別ですよ。
ごもっとも。しかし、物は心があって作るんですから、そう裁然と区別できますかね。
丸岡はそう言いましたが、わたしを試しているのでしょうか。
夷人を毛嫌いするのと攘夷は別、それは藤田東湖先生さえ安政の昔に言ったことで、文久三年ともなると、心ある志士の攘夷論は毛嫌い論ではありません。
その先が問題となっているのでした。明治の今日では分かり憎くなっていましょうが、攘夷の先鋒、久坂義助といえども医師として洋学を踏まえています。久坂の蔵書には、西洋紀聞、西洋新誌、泰西録話、西洋雑記などの和書だけでなくかなりの洋書があったと聞いております。久坂が金八両を借りるため和蘭陀語と英語の辞書を藩校有備館へ質に差し入れた逸話は有名です。それだけではなく久坂の著述には、あの廻瀾条議と並んで洋寇史略があり、これは元亀、天正以来の夷人との交渉史であります。わたしも一見したことがありますが詳細長文のものであり、西洋の事情を知らぬどころか今でも立派に通用するものであります。久坂を単に攘夷に固執した人物と見るのは誤りでありましょう。
久坂の師たる吉田松陰も青年時代、長崎遊学のとき阿蘭陀船を見学して阿蘭陀人の供応すら受け、続いて平戸藩家老葉山左内の知遇を受けて阿芙蓉彙聞、聖武記付録などの阿片戦争の記録をも詳細に読んでいます。浦賀でぺりーの軍艦に乗り込もうとしたときも、めりけん人に対する松陰の態度は礼儀正しいものだったと聞いています。相手が万里の波涛を乗り越えて来た只ならぬ勇者であることは分かつているのでした。その迫り来る夷人の勢力に対抗する策、それが攘夷論の本質でした。
もっとも単に夷人を汚らわしいと思うだけの無知な者も多く、その種類の排外論も盛んでした。明治六年の熊本神風連の乱、あの大田黒らの神州攘夷論も尚その種のものであったと言えるでしょう。しかし神風連の毛嫌いといえども表面に見るほど単純なものではなく、外国人の横行と明治政府の卑屈に刺激されて湧き出たものでありました。
かく言うわたしも同じ気持ちを持ったことがあります。あれは万延元年でしたか、初めて江戸へ出たとき夷人の通行を目撃しております。江戸の者たちは慣れているようでしたが、私の眼には異様でした。初に見る夷人の容姿も異様でしたが、それだけではありません。悠然と構えた夷人を、後に別手組と称した幕臣らが大勢で護衛しておりましたが、その役人達の卑屈さは胸が悪くなるようなものでした。その時のわたしの気持ちは神風連の諸君と大異はなかったでしょう。
しかし後で聞くと、幕臣らも夷人たちに対して卑屈というよりも、夷人に言い掛かりを付けられると幕府からの叱責を受け、閉門や、ときには禄を失うこともあるそうで、そのため心ならずも卑屈になるということでした。単に本人の心掛けによるのではなく、いやしくも征夷大将軍たるものが己の政権を維持するため対外卑屈の政策をとり、それを家臣に強いている結果でした。これはいかぬ。心ある者なら、そう思わずにいられぬ風景でした。このような事態であるなら、だれかが先ず先駆けとなり攘夷をやって見せねばならぬ。攘夷を幕府に強制せねばならぬ。弱腰の役人があれば斬らねばならぬ。このような気持ちが突き上げてくる光景でした。
わたしだけでなく、攘夷論はこのようなものであったのです。したがって攘夷論は必ずしも制度としての鎖国論ではありません。武装開国論などは攘夷論と大差はないのです。しかも当初は皆がまだ幕府の本心に期待していたのでした。あの吉田松陰すらもそうでした。しかし幕府の卑屈政策は改まらず、そのため、ついに痺れを切らして倒幕攘夷論が台頭したのです。それまでは尊皇、といっていたのが、勤王、と周の春秋の用語にかわり、勤王は倒覇にならって倒幕を意味することとなり、やがて倒幕は討幕という字に変わっていきます。
このように攘夷はなにより内側の敵との戦いでした。自己との戦いであったというべきかも知れませぬ。
こういう話もあります。夷人が来たばかりの頃。
役人が夷人篭絡のために女を宛がおうとしたところ、女郎でさえもが犬と交わるに等しいと理由を立てて尻ごみをする。そこで困った役人が、これは夷人の食用のため屠殺した牛の無念の供養である。誰かが身を捧げねばならぬ。という触れを出して見た処、たちまち多くの申し出があって女の数が足りた、というのです。牛の供養のためと夷人の枕頭に侍るとは奇妙な取り合わせですが、実は女も金が欲しかっただけです。世の指弾を恐れていた者が、供養と言う名分で免責されれば夷人に女が躰を差し出すのも平気となるのでした。上は征夷大将軍から下は女郎に至るまで、放置すればこうなるのです。じつに攘夷の戦いの相手は、内側にあるのでした。攘夷。まず志士が立ち、今日でいう民族の精神を確立しなければならなかったのでした。
もっとも丸岡通詞を前にして、この時そこまでの話題が出た訳ではありません。わたしも書生論をする気はなく、この機会に新知識、特におろしやの話を聞きたいと思いました。紅蘭先生も同じ気持ちと見え、話題は箱舘の話へ続きました。
でも、蝦夷地は大そうな遠国ゆえ、難儀なことでありますなあ。路はどう行かれますえ。
はあ。大津か堅田から船便で琵琶湖を渡り、小浜へ出ましてな。あとは北前船で寝ていきます。
そりゃまあ、さすが長崎通詞殿は慣れておいでじゃな。
いえ、北前船は二度目、慣れたというほどではありませんがね。じゃが旅は船旅に限りますな。歩かんで済む。今度の一橋公の上京も兵庫まで船じゃったそうですな。もっとも軍艦奉行勝麟太郎の指揮する汽船じゃそうなで、われわれの北前船とはだいぶ違うが。しかし良いものですよ、所々の港へ上がって遊んだり。
と、丸岡は旅は苦にしていないのでした。わたしは気になっていたことを尋ねました。
耶蘇坊主との交渉なら御役筋ゆえ中身は聞きもならんことやけど、やっぱり切支丹御禁制についてですか。
いや、今回はそのようなことではない。にこらいという耶蘇坊主がなかなかの傑僧でしてな。おろしやの領事も顔負けのことをする。油断がならぬ故、ひと締め呉れてやろうという訳です。べつに秘密でもござらん。
それは益々もって怪しからんことですなあ。昔、切支丹が禁制になったがも切支丹じたいの事ではのうて、俗事に力づくの横暴を振るいはじめたのが起こりやった。今になっても耶蘇坊主が領事も顔負けのことを起こしたとは怪しからんことやないですか。話の中身を聞いて構わんことですか。
一向に差し支えない。この、にこらいという坊主は文字どおり、にこにこ笑う愛想のいい髭男ですがね。
おや左様ですか。と紅蘭先生が口をはさみました。ほんに、にこらいなどと、おろしや人の名は我国の言葉に通じるような塩梅じゃなあ。ほほほ。
で、にこらい坊主は何をしたのですか。
それが。向こうの国事犯で流罪となっていた謀反人が文久元年の夏、逃亡して蝦夷へ来ましてね、そのお尋ね者を匿うて、あろうことか、めりけん国へ逃がすのに荷担したらしい。
え、それはまた大それた。
お尋ね者というのが国事犯も国事犯。貴族で軍人の身でありながら皇帝に叛いて逃亡して、欧州各国で国家転覆運動の首謀者となっておった男です。それが捕らえられて、しべりあの荒れ野へ流罪となっておった。謀反人の親玉ですよ。黒竜江を舟で下り逃亡して来たと言う。
そんな者が蝦夷地へ来たんですか。
欧米世界で有名な悪漢貴族、と言いますか。ばくうにん、という浪人者です。実はわたしも少々関わりがありましてね。当時この謀反人が蝦夷から間もなく横浜へ来て、めりけん国へ逃亡するため船待ちで一個月ばかり滞在していた時期があります。秋には無事めりけんへ逃げました。どういう話が付いているのか、おろしやの領事が一向に捕らえようとせんのじゃから問題は無いとはいえ、幕命で一月、監視役でこの男と付き合いましたよ。学者じゃそうで毎日物ばかり書いていたが、夷人料理を三人前も喰う大男で、大酒呑みで、薩摩焼酎の二升徳利を軽く空けましたよ。歌が好きな、付き合えば仲なか面白い男でしたがね。もっとも見張りじゃから楽ではなかった。大力で鉄の棒はねじ切ってみせるし、鉄砲はうまかったし。
おや、ばくうにん。やはり我国の言葉になじむ名ではありませぬかえ。まるで博労みたいな。ほ、ほ、ほ。
と紅蘭先生が茶をいれます。しかし口はそうでも先生もこの国家転覆運動の話に興味を抱いていることは明かでした。
ばくうにん。
欧州無政府党の首領、露西亜虚無党の巨魁。
今なら欧州共産連盟の領袖、まるくすと並ぶこの名を知らぬ者はいないでしょうが、なんと言っても当時です。わたしがその名を聞いたのは、この時が初めてでした。わたしの後半生に深刻な影響を与え、後には無政府党に身を投じるに至らしめた無政府の思想家、教師にして首領、みはいる・ばくうにんが、何と文久年間に我国へ来ていたのでした。
けれども丸岡さん、それほどの国事犯、逃亡犯を、おろしやの領事が捕まえようとせんがは不思議やありませんか。
不思議ではあるが、おろしや国というのは大ざっぱな国で、一度しべりやへ流刑にしたら、後は大して干渉しない制度のようです。
そうか知らんが逃亡犯でしょう。
じゃから幕府も後難を恐れて、わたしを見張りに付けて居たんですがね、おろしや国も何かと裏があるらしい。ばくうにん家は屋敷に農奴が五百人もいる貴族だそうな。と言うより、おろしゃでは土地の広さを農奴の数で測るらしくて、森やら、島がある河やら、畑やら草原やら、農奴が五百人で掛る広大な土地を荘園に取り入れた皇帝側近の貴族だそうで、その当主の息子だもの、家を捨てた勘当同然の無頼の流罪人とはいえ、下っ端役人の領事などは頭が上がらんのでしょう。
なるほど。大謀反人ですな。もっとも謀反といえば、わたしらの勤王も幕府にとっては謀反と言える。吉田松陰先生などは謀反の筆頭でしょう。この男もわれわれの仲間と言えば仲間ですな。で、ばくうにんという男は謀反について何を言うていましたか。
それは、仲々に一派あることを言いましたよ。恐ろしく学問があるらしく領事などは閉口していましたがね。
そうですか。わたしたちは勤王攘夷という思いを抱いているわけですが、おろしやに勤王攘夷はないでしょうね。
むろんです。なにしろ皇帝に向けての謀反をしようと言うのですからな。あの男が言っていたのは無政府です。
無政府。
そう。無政府です。
ははあ、政府と言えば各藩。天下にとっては幕府に当たりますな。それを無しにしようというのですか。
そう言うことでしょう。おろしやでは皇帝が国を治めていますから、これが政府です。ばくうにんは国に皇帝も役人も要らぬ。百姓町人だけでいい、と言うのです。
ははあ、百姓町人だけ。
その無政府の実現のために謀反をやるというのです。現に欧州で同志を糾合して謀反暴動の主役や教唆役の親玉になって、その挙げ句に捕まった。ただし、おろしやの貴族じゃから本国へ送り返されたらしい。ところが、おろしやでは直接謀反をやっておらんから罪は重くない。軍人貴族のくせに国外逃亡をして、皇帝の命に叛いたことで罪になった。
それで流刑ですんだがですな。
そこまではよく分からんが、それで扱いが緩うて逃亡できたのかも知れん。横浜でも不思議と金を持っていましたよ。
話を黙って聞いていた紅蘭先生が口を出だしました。
その、世に百姓だけが居ればいい、と言う論は珍しいものではありませぬ。昔の鼓腹撃壌の詩もそれでしょう。我国にも近年それを経世論として言うた人が居りましたよ。
ほう。誰ですか。
名も説もお差し止めになって世に出ておりません。ご存知ないでしょう。本も禁書です。星厳が手に入れて、今も一冊だけ家に隠してありますがね。京にも居った学者ですが、北の国へ逃れて死んだお人ですよ。安藤昌益と言いました。世に忘れられた人です。でも外国に同じことを言う人が出るとなれば馬鹿にはできない。いずれ再び名が出るかも知れませんね。林子兵、高野長英といった方々にせよ、当時はあのあしらいでしたが、黒船を見た今の世なら立派に名が通るでしょうからねえ。
その安藤昌益の説は、ばくうにんの論と同じ論ですか。
さて、ばくうにんとか言う人の論を知りませんもの、なんとも言えぬが、安藤昌益の論は、作物を作る百姓だけが世に有益なもので、百姓以外は、王も将軍も役人も坊主も商人も、皆が禄盗人じゃ、窃盗じゃ、と言う議論です。
ははあ、それは激しい。本がお差し止めになるのも無理はない。
でも星厳は、激しいのは構わぬが僻論であると申して退けましたよ。百姓大事は良いが、作物を運んで捌く町人が居なければ、作物は腐るばかりであろう。百姓町人が栄えても群盗横行となれば栄えは一瞬にして終わるであろう。役人も要る。坊主も要る、学者も要る。ことは政道の良し悪しであって、万職を立つるに非ざれば正論に非ず、と言う論でした。
ははあ。紅蘭先生は如何です。
わたしも星厳に賛成ですよ。孟子を踏まえておりまする。ほれほれ。許子は自ら之を織るか、いな粟を以てこれに交う。とあるやありませんか。誰でも知って居りまひょ。
そうも行きませんがね。
洪水横流し、禽獣人に迫る。禹、外にあること八年、三たび其の門を過ぐれども入らず、耕さんと欲すといえども得んや、でしたか、ほ、ほ、ほ。
いや、これは恐れ入りましたな。
二人の話を聞きながら、わたしは笠間金兵衛が説いた長州の重商の策を思い出しました。安藤昌益の論はこれに対立する極端な重農の論でしょう。現実に取るに足るものとは思えません。
もっとも本来の重農重商の論は、領主の収入の力点をどちらに置くかの議論であり、百姓を大事にするとか言うことではなく、むしろ重農の策の下では百姓は搾られます。その点で安藤昌益の論は百姓の立場に立つ悲憤慷慨の説であり、記憶に残るものでした。
農は国の基。
この言葉もそのどちらか、区別して聞くべきでありましょう。
銭屋五兵衛を排斥した加賀藩の黒羽織党の指導者、上田作之丞の説は領主の立場からのものでした。幕府の政策も同じことで、しかも商業支配の大事さを理解せず、これを手放して上方商人に与えてしまったのが幕府の政策でした。
一、
- 2009/09/01(火) 20:02:11
長州屋敷は危険だ。仕事にならぬ。何しろ密偵に囲まれておる。
というのが一致した見解でした。前にも述べたごとく、文久三年八月十八日の七卿落ちの政変があって、それまで学習院の公卿を操り朝廷を左右していた長州藩は、あの朝突然に虚を突かれ地位を覆されて勅勘の立場となり、京の藩邸は閉鎖同然、留守居役と三名の添役の滞在が許されたのみで、藩士たちは京からの総退去を命じられていました。これ以後、京での長州藩士の活躍は非合法となったのでした。発覚すれば逮捕です。
薩摩の打った陰謀じゃ。
この年六月、薩摩藩士田中新兵衛が姉小路卿の暗殺犯人として検挙され自刃し、そのため薩摩藩は乾町御門の護衛役を解かれ藩ごとの蟄居。これは長州藩の圧力によると言われます。今度はその薩摩藩が会津藩と連合して行われた政変でした。
長州と薩摩。この外様二大藩の、かねてからの敵対は激しいものでした。
今は長州藩の負けです。藩邸は孤立していました。三条河原町に高瀬川を背にした長州藩邸は日夜、所司代や奉行所の密偵たちに取り囲まれていたのでした。
とはいえ、藩邸が認められている以上、藩邸留守居役や従者の出入りは自由で、前回の土佐藩の上士、乾退助の来訪なども勝手です。
当時の長州藩京都留守居役は、藩政改革の指導者として名の響いた村田清風の次男、高百六十一石、村田次郎三郎。この頃は七卿に従い帰藩中でした。今、京藩邸を預かるのは新たな留守居役、高二百七十五石の乃美織江、添役は高九十石の桂小五郎です。従者と名乗る潜伏の藩士たちの行動も一応は黙過となっていたのですが、わたしのような部外者は、どうして分かるのか厳しく選別され、外出のたび目明かしに付きまとわれるのでした。
貴公は屋敷を出た方が得策じゃろう。
と寺島忠三郎の発案でした。久坂義助が帰国した後、藩邸に潜伏した足軽上がりの人江九一らを統制していたのは、高七十石の上士寺島太次郎の二男、まだ部屋住みの見ながら、この寺島忠三郎です。このとき二十一才。昨年来、久坂らと行動を共にし勤王党の機密に通じていました。この人も翌元治元年に蛤御門の敗戦で久坂義助や入江九一らと共に戦死します。
お主ぁ大事の連絡役じゃ。身軽に動いて貰わねばならん。宿舎の手配は当方でいたす。金についても心痛はいらんけえの。貴公の手当は屋敷から出る。
食い扶持を探していると思われるのは心外でしたが、今は逆らうことのできない流れでした。しかし勤王攘夷の本拠、長州藩に身の置き処ができたことは、安心でもあります。加賀藩の両天秤の手先とは異なります。挺身して死ねばよいのでした。
寺島忠三郎が探し出してくれた宿舎は意外な先でした。
三本木の色町の中、背後に鴨川を控えた瀟洒な家ながら、安政の大獄のさなか逮捕直前に病死した梁川星巌の未亡人、これも勤王の傑女として名高い梁川紅蘭女史の隠宅でした。紅蘭女史このとき五十九才、星巌先生の志を継いで旧宅に私塾を開き婦人ながら天下の志士として聞こえていました。
なんちゅうても三本木なら、わしらも行き易いけえの。
そういえば志士仲間に加わり三本木の吉田屋で会合したのはこの春でした。その時会った高杉晋作、久坂義助、山県小助、時山直八、土方楠左衛門、轟武兵衛らはすでに長州藩地へ去りました。天誅組となった吉村寅太郎、松本奎堂らは吉野山下に戦死して、笠間金兵衛も加賀へ帰った筈、京に残っているのはこの寺島忠三郎、入江九一、それにわたしです。三本木の梁川邸は吉田屋のすぐ近く、お互いの行き来を考えると、なるほど絶妙の隠れ家です。しかし寺島忠三郎は驚くべきことを付加えました。
じつは。土方梅野どのも行って戴くことになった。
え。
屋敷ではなに分にも男の中の女一人じゃ。よんどころなく下女の隣室に寝泊まりじゃが、わしらとしても使うわけにも行かず、というて客人扱いも続けられん。美女がおって目障りで困っておった。それを紅蘭先生が預かって下さるそうなで。楠左衛門さんには無断じゃが、当分は長州行きの女旅は便がとれんから止むを得ん。美女とお主との仲じゃ。ちょうどよかろう。
そ、それは困る。
困ることがあるか。それに紅蘭先生の家には住込みの女弟子もおるがの。ひと部屋に住めとは言うちょらん。
それはもとより。もとより。
あっ、はっ、は。と寺島は笑い、それでは明日でも、まず一人で越すがええ。ただし、あの家へ入ることを目明かしに気取られんでくれ。ええか。犬を巻いてから行け。荷物などは持参には及ばん。梅野さんは別に行く。
荷物などある身の上ではありません。若干のものは元の下宿に預けたままでした。寺島は、紅蘭女史に宛てた藩邸からの添状をくれ、わしも暫くは屋敷を留守にする、と言って姿を消しました。
鴨川端、丸太町は三本木の色町、絃歌さざめく中。ここに頼山陽と並ぶかつての勤王の詩人、梁川星巌先生の旧宅、安政の大獄当時幕吏によって悪謀の問屋と呼ばれた鴨沂小隠があります。
紅蘭女史も詩文に勝れる学者であるばかりでなく、花水にたけた画人であり、かつ易学にも長じた方でした。住込みの女弟子もいるのですが、師弟ともに出好きで、塾は留守の日も多いという噂です。
なんしろ貴公、星巌先生の奥様ゆえに、豪傑婆さまじゃ。先日も出掛けた足先、さて忘れ物を思い出して帰って見ると家に見慣れぬ男がおったげな。一喝するとこれが空巣泥棒であることがわかった。その風態が淋しいで紅蘭先生思わず、お前さま空腹ではありませぬか、と尋ねたら、へい、空腹でござりますと腹を抱える。それは気の毒、ちゆうて冷飯、香こ、茶を出してやり、お前さま、わたしは用があって出るにより、飯代がわりに留守番をして下され、と先生出掛けてしもうた。帰って見ると茶椀がきれいに洗ってあったが泥棒は姿を消していたというぞ。
ははあ、空巣泥棒に留守番を言い付けるとは、それは至って奇妙人やなあ。
という話を入江九一として、わたしは鴨沂小隠を訪ねました。幸いに紅蘭女史は在宅で気持ちよく迎え入れられ、奥まった、ちょっと離れの一室を与えられました。すぐに鴨川が見える場所でした。
安政の大獄のさなか、ころりの病で星巌先生が亡くなられた三日後、踏み込んできた捕吏に捕らえられて半年の下獄のとき、紅蘭先生は問詰める役人に対し、星巌はわたし如きに大事を洩らすような男ではござりませぬ。それとも御役人様、あなたは役所の仕事をいちいち奥様にお洩らしなさいますか、と逆襲して沈黙させたというほどの人です。
どれほどのごつい婦人かと思っていましたのに、優しいのに驚きました。さすが当時島津斉彬公の手足として活躍していた西郷吉之助から今日の志士にいたるまで、ことごとく心服したといわれるだけの人物でした。亀甲の地味な小紋に、それでも年ながら画家らしく赤と緑のきいた半襟をのぞかせた姿、お歯黒のたしなみも良い老婦人でした。
わたしに与えられた部屋は星巌先生が来客をもてなしたという小部屋で、捕吏が来れば河原へ逃げられる位置にありました。質素な部屋で畳も今は赤茶に変じています。詩人の部屋らしく柱には杉の短冊掛けに絵短冊、襖は水墨の山水、ただし床の間には刀掛けと本が数冊あるだけで香炉や置物は無く、掛けられた軸は星巌先生の自筆で、志士たちに国運を憂えて示した酔余一気の筆だということでした。
白髪三千丈
縁愁以箇長
と、なるほど酔余らしい狂草の字体。聯になっております。白髪三千丈、愁いによりて、かくのごとく長し。
もとより有名な李白の詩です。これには、知らず明鏡のうち、いずれの処より秋霜を得たるや、が続き、自分の老いと挫折を嘆いた詩であることは知られています。しかし二句だけを抜き出して見ると見事に憂国の詩に化しており、酒席に高揚した志士たちが喝采した光景が眼に浮かぶようです。ただし星巌先生の豪宕な酒席のたびに、紅蘭先生が衣服や簪を質屋へ運んだことも今は周知のことです。
しかしこうして星巌先生の旧宅にいれば、書物も無しの風来坊では恥ずかしい。ともかく書物だけは差当たり必要なので数日の後、烏丸三条の下宿へ取りに行きました。宿の主はわたしの姿を見て驚いたようでした。しかし旧に返って荷物のまとめを手伝ってくれます。婆さんが、菓子でも、と言って出て行きましたが仲々帰りません。それを待たず少々の銭を渡し、荷物を持った帰りでした。付近の広場へ差しかかると子供が遊んでいる中に交じっていて立ち上がったのは、仙でした。
あ、旦はん。
お、お仙か。こりゃ。こりゃ久し振りやな。
旦はん、お無事でしたんか。えかったわぁ。気遣うてましたえ。
仙は相変わらず豆屋に住込んでいるのでした。身につけているのは粗末な、それでも黒襟を付けた、黄色の地に赤の井桁の木綿紬、どうにか袂袖のある着物に、これも木綿の黒帯を締めていました。とはいえ足首の出た働き着に藁草履です。髪は手結いの結綿でした。
お仙。こっちへ来んか。
へえ。
仙は遊ばせていた子供たちに、ほな、お家へ帰りやしや、と言ってわたしに付いてきました。家主も幕府の犬と思えや、といった笠間金兵衛の言葉は耳についていて、早く下宿を離れようとしていたのですが、仙に用心はいらぬ、と思いました。それでもしばらく歩いて、赤地蔵の八方小路と呼ばれる抜け道の広見へ通りました。
旦はん。あて、旦はんが恋しゅうて。
うむ。
立ち止まって向かい合うと、いつもの癖で仙は前垂れの下へ両手を入れ、少し反り身になってわたしを見ました。ほっそりした肩からほっそりした首筋が伸びて、後れ毛が光り、昼間の光で見ると眼が茶掛かっているのでした。当時の村娘の習わしで夜這や夜祭で男を知った上の身であったとはいえ、下女ながら下宿で何月も伽をして仕えてくれた仙の言葉に嘘はないでしょう。
旦はんのとこへ行きとおす。いま、どこにいてはりますの。
お仙。
へえ。
わたしは言葉を切りました。いくら仙にでも紅蘭先生のことは言うべきではありません。
今はな、ある宿におるが、近い内に加賀へ帰るんや。
ほな、これで逢われしまへんのどすか。
仙はにじり寄って来ましたが、もしやの人目を気にして、また離れます。少し斜めになってわたしを見上げるのでした。仙は背の高いほうです。少し持ち上げた前垂れの脇、黄色の木綿に包まれた尻から外腿の形がのびて小娘ながら女らしさが溢れていました。愛撫しつくした足ですが着物をむしり取りたいような気持ちがしました。
そんなこと、ないぞ。また京へ帰ってくるんや。そしたら必ず呼ぶぞ。
ほんまどすか。ほんま。きっとどすえ。
きっとや。お仙に文をやれるといいんやが。
仙はうなだれます。百姓娘の仙に字が読めるわけはないのでした。
豆屋へ行く。必ずや。
うれしわぁ。
しばらく、このような甘い言葉を交わしながら眼は四方に配っていました。そのとき向こうの土塀の陰に、ちらりと黒いものが見えたような気がしました。
やっぱり。そっと周囲を見ます。卒塔婆だらけの墓地でした。しかし長く居る場合ではないでしょう。捕吏に網を張られてはならないのでした。
旦はん。おとくはんが帰ってはるの知ってはりますか。四条の糸増はんや。
なに。
ほら。ほんな眼ぇして。やっぱり旦はんはうちより、おとくはんが好きなんやなあ。
お仙。いいか。落ちついて、よう聞いてくれ。帰ってから豆屋の主やら目明かしやらに、わしのことを聞かれたら、今あったとおりのことを言え。
え、なんどす。
忘れんな。隠さず、ありのまんま言えや。嘘を言うな。いいか。そうすりゃおまんは無事やし、わしもお仙が目明かしにそう言う筈を当てにして、考えて動くぞ。言うとおりにせいや。分かるな。ほんなら急いで帰れ。
なに言うてはるの。おとくはんのことを言うたら、急にそんな。
目明かしにつけられたんや。この荷物を頼む。早うし。ほら。
仙の両肩に手を掛け、ぐるりと向こうを向かせて、とんと押しました。娘の匂いが強く鼻をつきましたが、それを思っている暇はないのでした。仙は頭のいい娘でした。一瞬に事態を察したと見え、後ろ向きのまま肯いて荷物をとり、ほな、と言い歩き出しました。少し歩いて塀の角を曲がるとき、こちらを見てにっこり笑い、ちょっと止まって姿を消しました。
角の向こうには誰もいない、という合図でした。また逢えることを確信している風情でした。
一刻も早くと思い、墓地を抜け路地を抜けて四条の通りへ出、さらに五条河原へ向かいました。どうしたらよいか様子の掴めぬ今の場合は、いったん五条の沢兵衛の勢力範囲へ入ることが最善のように思ったからです。仏光寺の境内を抜けて松原大橋へ出ました。沢兵衛の支配地はこの河原です。幕府の方針で河原の土地や草は無料で任され、博労が多くの馬を養って表向きは幕府の御用を努めております。この地で潤沢な金を持ち、風を切る博労の集団に逆らう者はいません。陸へ上がっても事実上沢兵衛の支配下で、博労の腕力に太刀打ちできる勢力は無く、土地の獄吏、目明かしはもとより、遊芸人、妓夫、川舟の娼婦はその仲間です。ここなら沢兵衛の息の掛からぬ捕り物は無く、安心でした。とはいえ烏丸からの尾行はいないか。もとより紅蘭先生の隠宅へ向かうことはできません。
松原大橋。この橋が牛若丸が出る昔の五条大橋です。今の五条の大橋は、太閤秀吉が方広寺の大仏を建立するに当たって五条通りを寺の脇正面へ移転させて出来た新橋であります。下鴨の河原を支配する五条の沢兵衛の勢力範囲が、この松原大橋の旧五条橋を中心にして広がっているのは、五条と呼ばれる沢兵衛の家系が豊臣、徳川などよりはるかに古く、川棲みとして南北朝以前に遡ること楠一族に劣らない、といわれるのに符合するものでした。
さて。どこへ行くか。
しかし橋の欄干にもたれ水面を見ると感慨にふけらずにはいられません。
今や幕府は戦国以来の宿敵、長州藩を再び敗退させたのでした。徳川の勢力はまたも強くなり、秘密の動きをしている五条の沢兵衛は孤立しているように思えました。表向きは沢兵衛は頭として、所司代の下の探索方にほかなりません。
その徳川将軍は、あの老中格小笠原図書頭の引兵上京の衝撃を利用して、形ばかりの許しを得て京を脱出。図書頭は表向きには罰せられましたが、実はそれまで江戸と京の二つに分裂していた幕府主脳は江戸に結集し再び勢力を回復しています。薩摩の武力と組んだ京都守護職、会津藩松平侯。所司代、淀藩稲葉侯。その下に新選組や見廻組が手兵となって京を制圧しているのでした。
勤王派といえば今や総崩れです。振り返ると僅か数カ月の間であるのに今昔の感にたえぬ有り様でした。
思えばこの三月の孝明帝の上賀茂下鴨両社行幸、四月の岩清水八幡宮行幸が勤王派の絶頂の時でありました。賀茂社行幸の際は、将軍が衆人の見る中を春雨に濡れて馬での供奉でした。
次いで、夏を迎えて岩清水八幡宮行幸の折は、将軍は攘夷の朝命を恐れ病と称して欠席し、名代たる一橋公は、攘夷の節刀を賜るとの予定を洩れ聞き、これを免れるため男山下の宿坊で腹痛を起こしたとして山上の参拝を辞し、這々の体でそのまま淀川を大阪へ向かい、京を退去しています。残された将軍は、小笠原図書の上京までは勤王党による人質の如き有り様となっていたのでした。当時、わたしが小笠原の陣を探索に出向いて負傷したことは前にお話ししたとおりです。
いまや京に、あの状況はありません。
ふん。長州もなあ、金を遣うんは自分だけやと油断したがやざ。と笠間金兵衛が先日言いましたが、そのとおりでした。文久三年は僅かな油断で政情が一変した大変動の年であったのです。
たしかに、それまでの大状況を作り上げたのは長州藩でした。その財力でした。
三十数年を経た今日にして思えば、その前年、文久二年までの長州主流の動きは、長井雅楽の航海遠略の説による公武合体策でした。
僅かに吉田松陰の遺志を受けた松下村塾党が勤王論を取っていたとはいえ、まだ思想の戦いに過ぎなかったのが、久坂玄瑞らの巻き返しによる長井雅楽の切腹以来、文久三年春を境として長州藩を挙げた倒幕の戦いに変化しています。
それは戦国時代前期に農を基盤に台頭した徳川家の重農の策によって立つ幕府に対し、和冦の流れを汲み重商の策を取った長州が、関ヶ原以来の宿怨を晴らすべく挑戦を始めた年であったと見てよいでしょう。
加賀藩の大斥候、笠間金兵衛は長州藩の実状を詳しく調べていたのでした。当時は真の脱藩と信じていた私でさえ、金兵衛が僅かに漏らす言葉の端々から若干の知識を蓄えたほどでした。
ほんま、わが加賀藩が銭屋五兵衛を潰したがは失敗やった。あっ等を育てんならんかったんや。能登の七尾は北前船の大拠点になれる港や。富山を抱えて何でもできる。あの七尾を下関に負けん港に作らんならんかったんや。それで始めて長州に対抗できるがやザ。
そやけど銭屋は南蛮抜荷で幕府に睨まれましたやろ。加賀藩も荷担しとると見られたんで、藩庁も止むをえん仕儀でしたんやろ。
実はそうでもない。黒羽織党の失敗や。上田先生の意向もあった。拠遊館の上田作之丞ゆうたら加賀藩きっての希代の秀才や。黒羽織党を率いて世に聞こえた方やが、なんと言うても百万石の加賀のお人や。重農の説を出ることは出来んかった。米価愚按論ちゅう著書があってな、儂も頂いたことがあるけど、その中で米価の高騰は銭屋ら商人のせいじゃ、と述べておられる。商人みたいなもんな世の中に要らんちゅう意見や。固陋なことや。東照権現以来、幕府をはじめ東北諸藩は皆この説や。こんなことでは長州、佐賀ら西南諸藩には勝てんざ。
と笠間金兵衛は慨嘆し、調べ上げた長州の様子を教えて呉れたものです。
長州藩はもともと宝暦年間の検地以来、領民撫育を計るため撫育方と呼ぶ特別会計を作って国力を貯めようとしていたのですが、その後、天保年間の大一揆の反乱で全藩が震駭してこの方、国老、村田清風の指揮のもと、この撫育方を拡大、下関越荷方という商業機関を設立、ついに膨大な蓄財に成功していました。
その財源は長州の四白と呼ばれた、米、塩、紙、蝋をはじめとする物産の増産と商業政策。加えて下関越荷方による収益でした。ことに下関の抜荷の利益は大きかったと見てよいでしょう。抜荷という用語は外国との密貿易の意に用いられることが多いようですが、本来は幕府の統制下にある公式運送からの抜取り荷上げ、途中買いのことです。
長州藩下関越荷方の場合は、米や菜種、鉄、銅、真鍮、絹、木綿、材木や松前の海産物などの幕府の大阪廻送令に違反する、松前船からの抜荷上げが主や、と笠間金兵衛は言いました。
松前船は蝦夷地からの交易船で、日本海から下関を経て瀬戸内海を大阪へ上がる船です。越後、加賀、そして越前の敦賀や若狭の小浜といった港にも入るのですが、その田舎で抜荷上げをしても意味がないのに反し、下関は九州や山陽道の商業地を控えているため米などの抜荷、抜商、闇相場の利益は、日米通商条約このかたの相場乱高下のもと莫大なものがあったのでしょう。
この撫育金財政を信用の土台として、大阪の豪商、鴻池善五郎や広岡久右衛門が融資を開始していました。というより、これらの豪商も抜荷取引の仲間でしょう。長州は村田清風を頭領とする重商の策により商業圏での台頭を始めていたのでした。
これが金兵衛から聞き知ったことでした。
思えば、上賀茂下鴨社の行幸にせよ岩清水八幡宮への行幸にせよ、すべて朝廷に対する長州藩世子の献言によったものと言うことでした。大名が言うからには手ぶらではありません。献言するということは費用も持つ、献納するということです。朝廷に金がある訳はありませんし公卿は腐敗しています。諸藩に一万両あての献金の命令が下ってもおりますが、大部分の費用、無駄金を覚悟せずに献言はできません。馬鹿げた振舞金、公卿への莫大な賄賂、抱き金、色町の女小者から市井の髪結いの口先にまでばら撒かれた噂金、たわけ金、これらはすべて長州藩から出た金でした。このタワケ金が長州の勢いを生んだのでした。思えば明治維新も金で出来上がったもので、痩浪人などは走り使いだったと見ることさえできるでしょう。
現に八月十八日の政変騒ぎの時、長州藩財務方、あの豪傑の来嶋又兵衛は、来る大和行幸の費用借用について豪商広岡久右衛門と交渉のため大阪へ下っていて京での七卿落ちには居合わせていなかった、と言うことです。勤王も財務が主、金のやりくりが中心になっていました。予定の大和行幸も、やはり長州藩の献言でした。
しかし長州藩もやり過ぎたのでした。その動きを嫉視した薩摩藩が、これも琉球密貿易で蓄えた大財力を土台にして、中川宮すなわち元の青蓮院宮と近衛殿下を動かし会津藩と組んで長州の頭上に大鉄槌を下した、それが七卿落ちの政変だったのです。
外様藩と外様藩の抗争。
幕府の思う壷です。こうして今や徳川将軍の力は復活し、この文久三年十月から十一月に掛けて薩摩藩島津久光、越前藩松平慶永、筑前藩黒田筑後、宇和島藩伊達伊予、一橋慶喜と続々と入京、世は再び徳川の天下となっております。
これに反し、それまで勢威を誇った勤王派は全滅でした。八月の七卿落ちと長州追放に始まる吉野山における天誅組の苦戦と壊滅。この情勢を見て九月に始まった土佐藩の勤王党弾圧の開始。土佐勤王党を率いる武市半平太も容堂侯の忌諱に触れ藩地で下獄です。続いて十月の但馬の生野銀山の旗揚げも敗北、首謀者平野次郎国臣は捕縛されて獄舎に居ます。この状況が今日、文久三年の初冬でした。
見つめる鴨川の河原ももはや水が冷たくなった風情で水鳥が増えていました。淋しい京の冬でした。しかし風景を見続けていても仕方が無い。四条へ出るか。
ぶらぶら歩いて四条へ向かいます。このとき遠くで叫びが聞こえました。
なんだ。
四条の橋近くで騒ぎが起きているようでした。
さきほど仙がいったことが本当なら四条橋際の糸増には、とくが奉公を始めているのです。近くへ行って見ようかと迷っていたところでした。しかし何やら容易ならぬ騒ぎのようでした。血相を変えて大勢が走っていました。これは糸増へ寄るどころではないようです。その時群衆の中にちらりと白い姿が見えました。あれは。確かに青場幽佐衛門だ、と思いました。何事か分からぬながらあの男なら行ってやらねばなりません。刀の柄を押さえて小走りに走りました。橋の袂、遠巻の人群を抜けて前へ出ると。何事でしょうか。馬が一頭倒れていました。横に数人の武士、殺気に満ちた壮士たちの一人が刀を抜いていました。その足元に男が一人、血まみれ土まみれになって転がっています。
何事や。
博労と侍の喧嘩やで。
わたしの問に群衆の誰かが答えるのでしたが、だれが言ったことか分からぬように顔を動かさないで答えるのでした。見るとすぐ側に虚空がいました。これもそっと頭を振って向こうを見ます。
うぬら新選組に手向かいするかぁ。
と侍の一人が叫びました。刀を抜いた一人は前へ出ます。居丈高な姿でした。それに向かって群衆の中から年老いた見苦しい姿の男が一人、小腰をかがめて進み出ました。その後へ手下らしい者が五人ばかり続きました。
手向かいする気かっ。
先頭の年寄りは刀の前で腰を抜かしたように、へたり込みます。
お許しなはれて下はりまへ。馬を売ったは一月も前でござります。半月たてばお咎め無しは天下の大法でごさりまふ。たまさかの不運、これはお見逃し頂くんが、あたいどもの業いでおざりまふ。
ならんと言ったらならんぞ。わざわざ法外の高値を出して買った副長の馬じゃ。それが一月で死ぬとは、了見ならぬのは当然ではないか。御公儀ご用のわれら、死馬はいらん。二日以内に代を持参せよ。
御無態でござりまふ。御法に背きまふ。
そう言って年寄りは土下座をし地面へ頭をこすり付けますが、その癖一歩も譲る気配はありません。頭らしく気力のある老人でした。
喧嘩やでえ。
博労と壬生浪の喧嘩やでえ。
来て見いや。乞食のおめこより、よっぽど、おもろいでえ。
と群衆は人の輪の外の安全な場所で叫んでいました。乞食のおめことは、数日前この同じ場所で、乞食の男女が白昼衆人環視の中で交合を続け見物が大勢集まって、そら行けホイホイと音頭をとった一件のことを引き合いに出しているのです。今は人が一人血塗れになって死んでいるというのに群衆は無責任で無慈悲な声を上げているのでした。もっともこの一、二年、京の群衆は斬られた死体、梟された首といった残酷な光景に慣れ無感動になっているのです。だが、この叫びを嘲笑と聞いたのか刀の武士がキッと動きました。
おのれっ。
新選組の常として一人動くときは数人が同時に動きます。動きは急で容赦はありません。土下座した年寄りが斬られようとした時でした。
あっ。
黒いものが。鎖でした。鎖が飛んできたのです。一丈ばかりの黒い鎖でした。
あっ。
と叫んだときには黒い鎖は新選組の三人を打って、刀を持った男に巻き付いていました。両端に分銅が付いているのです。投げ一文字の業でした。
何者だっ。
鎖を振り払った新選組は怒号します。鎖は先刻見た白衣の青場が投げたな、と突差に思いました。しかし白衣は目立ちます。幽左衛門はすぐ発見されるでしょう。いや、すでに新選組の一人が、
あやつだ。
と幽左衛門の白衣を指差しました。これはいかん。幽左衛門が逃げれば年寄りは斬られます。とはいえ鎖は投げてしまった幽左衛門に五人の新選組。虚空も非力でしょう。衆人環視のなかで窮地に立っていました。手を出して、かばう他はない。止むを得ぬ仕儀となりました。
わたしだ。
と、わたしは進み出ました。
何をっ。
すばやく五人を観察しました。あの新選組にしては見知らぬ顔ぶれ。しかし屈強の壮士たちです。新選組が京都守護職の預りとなった後、新たに組隊士を募った話は聞いていました。その新隊士かも知れません。後年、明治となってから振り返っても、この初期に新選組に入った者たちは選ばれた武術の達人、猛者揃いでした。
あとの四人もためらいもなく抜刀しました。することが早いのでした。息付く暇もなく、じりじりと迫って来ますが、わたしの居合の構えを見て間合いを取っています。このように構えた五人を居合で倒すことは困難です。
居合にも、三角、四方斬り、など多数を相手の業はいくつかあるのですが、この敵ではいかぬ、と思いました。わたしの流儀はもともと一刀流です。これに立返って抜合わすほかはないでしょう。相手は前面に広がり、その刀は互いに連係があるかのように浮動しています。
これは容易ならぬ刀法でした。
一体に剣術は一人の業とされて来ました。たとえ相手が数人でも、こちらは一人で立向う。組太刀の型もすべてそうなっています。無頼漢のように味方数人が組合となって一人の敵に向う、などという型はありません。これは剣術が武士一人一人の誇りある心得であったばかりでなく、松木七兵衛を撃ったときのことで申し上げたように、刀の動きは予測できるものではないため味方数人が接近して刀を振うことは相互を傷つける危険があり、まず一人が仕手となって主動を取るほかないからであります。
しかし新選組は浮浪の徒です。近藤勇、土方歳三ら首脳が編み出した闘争法は無慈悲なものでした。数人が接近して敵に迫る。仲間を斬ることは一向に構わぬ。斬られる如き不心得者は捨てて顧みぬ、という凄じいものでした。その訓練を日夜、暗闇の中でさえ強行していたのでした。家臣、同僚を大切にした藩主、藩士たちの思いもよらぬ餓狼の戦法であったのです。動乱に浮浪の徒が浮かび上がってくるこの時代に合致していたとも言えましょう。
軍讖に曰く。
香餌の下に必ず死魚あり、重賞の下に必ず勇夫あり。
乱世の兵法書、三略の言葉です。この浮浪の徒に対し出世という大重賞が出されているのでしょう。いや、この時代に会津侯預りの身になること自体が重賞といってよかったのです。味方に斬られることすら恐れぬ。それが眼前の五人の剣でした。凶悪なものでした。剣はすでに乱世、戦国時代の闘争術に返っていました。思えば三百年の太平は終わっていたのでした。
一刀流にも多数を敵とする刀法は数多くありますが、いずれも敵の一角を破る、という戦法です。しかしこの敵には一角などはなく餓狼一体となって相互の距離も置かず接近し、刀を左右に波のように浮動させ迫ってきます。難敵に遭遇したのでした。もとより一瞬に考えたことです。
突嗟にわたしは身をひるがえして走り逃げました。
おのれっ。
と追って来ます。敵を各個に撃破することは戦いの基本です。いくら新選組でも足の速さは違うでしょう。五人を引き離さねばなりません。囲りの群衆は五人の白刃を見て飛び散り、道は自然に開けました。
が、新選組の足の速さは意外でした。速さも速し、すぐ後を猛然と走り迫って来るのです。走る、走る。今にも追い付かれます。しかもこちらは抜刀をしていないのです。抜かりでした。一瞬の餘裕もなく、もはや居合の腰も取れません。これはいかん。
けぇっ、と鋭い敵の気合。これはいかぬ。瞬間の決意、わたしはだっと大きく一歩を踏み出し、反動をつけて身を翻し、後へ飛びました。丸めた自分の体を石にして、走る敵の足元へ叩き付ける。
一刀流裏伝、狸返し。
膝を曲げ、座る姿勢に伏せて脇腹をかばう。白刃の下、もとより捨て身中の捨て身業です。
あっ。
先頭の一人。そして続く一人がわたしの体に跌き、もんどり打って転がり、二三間先へずり倒れました。電光の速さで跳ね上がり、瞬間、体勢を逆向きにととのえ、三人目の前を敵の斜め後に向けて走ります。三人は止まることができず抜刀のまま、すれ違います。斬れるな、と思いました。しかし今は斬るのが目的ではありません。転がった二人の刀が手を離れ、十間も先を滑るのをチラと見て、わたしは逃げ惑う群衆の中へ走り込みました。敵は当然追ってくるでしょうが、これで一息の間合いが取れます。相手の心気をも挫いた筈です。一人は負傷しているかも知れません。
群衆の間に白い姿が見えました。青場幽左衛門です。ニヤリと笑い掛けて来ました。わたしは首を振って、あらぬ方へ向かいました。幽左衛門も心得て近寄りません。
おのれ。
寸時に固まった新選組の三人は凄い形相でこちらへ向き直りました。
逃がさんぞ。
白刃の前に群衆は道を開きます。やはり困ったことになりました。好まぬながら闘うほかはないか。難敵です。
が、その時、驚くべきことが起こりました。群衆、というより先程殺された男の仲間たちでしょう。群衆の中から投石が始まったのです。
ばらばらと無数の石の雨。
投げる石の勢は強く、最初立ち向かおうとした新選組も、たちまち負傷し、体を曲げて逃げ惑います。これは。河原の石合戦の形勢でした。
悪名高い、鴨の博労、下人の石投げ。
仏国でも大革命より百年も前、絶対王制の勢い高まる十七世紀の頃、国王を嫉視する大貴族、こんと達の反抗が高まり、ふろんど、と称する勢力になります。ふろんどとは石弓のことで貴族の武器ですが、ついに僧院や民衆も加わり、投石を闘争の手段とします。
ふろんどは石投げ党とも言われます。
この鴨の河原の石投げ騒ぎがそれに似ており長くわたしの記憶に残りました。と申すのは、後年わたしが無政府党に身を投じ明治政府に反対する立場になったとき仏国反抗史を読み、わが国の民衆にもやがてそのような戦法が育たないかと思ったからです。しかし日本では欧州諸国ほどは階級分裂が明確でなく、下層の勢力も弱く、自覚も強くなく、その場かぎりの一揆や蜂起は別として階級間の大抗争は起きず無政府党の結集も出来ておりません。
しかしこの時の京の四条大橋での投石の光景は眼について離れません。
新選組の隊士も下層の浪士ですが幕府御用の勢力です。これと死馬の免責を主張する博労との争いでしたが、馬は高額のものですから、これを巡る紛争は少なくなかったのです。投石をしたのはあるいは博労仲間ではなく、青場幽左衛門に味方する民衆がわたしを助けようとしたものであったのかも知れませんが、いずれにせよ幕府配下との争いでした。これに助けられ、京の迷路を抜けてわたしは無事に逃げのびました。
一、
- 2009/08/01(土) 20:00:53
縦にも横にも痒い。
かゆいぞッ。
と跳ね起き、目覚めました。あッ、そうか。今夜から、この木賃宿にいたのでした。
へ、へ、へ。
と横から嘲笑が聞こえました。同宿の物売りの年寄りでした。
かゆいんか。痒がるようなら新入りやな。あっちにも似たようなんがおるワ。
部屋の向こうに老婆がいて、これも体を掻き廻しています。すでに垢じみてはいるが身なりが多少良いのは、まだ木賃宿に慣れていない身の上なのでしょう。
大勢の入れ込みの破れ畳の十畳、早くから灯を消すと危険なので、宵の口はまだ台に載せた皿の灯心が暗い光を投げているのでした。
ぞり、ぞり、ぞり、ぞり。
と誰かが唱うように言いました。同宿の者たちは知らぬ顔をしながら新入りのわたしを見張っていたのでした。
ぞりが恐ろしうて、京で暮らせへんで。は、は、は。
どっと笑い声が起こりました。
ほりゃ。
体を掻き廻していた老婆が思ったより下品な声で何かを投げ出しました。八つ手の葉でした。その大きい葉に、点々と数知れぬ赤い汚れがついていました。血のようでした。まるで赤い豆絞りの手拭いのように、点々と百近くも付いている汚れは、ああ、虱を潰した痕でした。老婆は血を吸った虱を取って、次々と八つ手の葉に潰していたのでした。そしてまたも新しい八つ手の葉をとって、同じ作業を続けるのでした。
若い衆。あんさんは来たばっかりや。虱はまだついとらんやろ。痒いんはゾリやのうて、蚤やろ。ほれ、足を見い。
えっ。
足を投げて見ると、黒い点が十あまりもついています。蚤でした。
わっ。
掻きむしりますが全部は逃げません。喰い付いて血を吸っているのでした。手拭いではたき、擦りました。しかしまた飛び付いてくるのでした。
隣に寝ていた不精髭の若い男が激しい咳をして、
ゲッ。
痰を吐き出しました。見ると驚くほど多量の青痰で、手もとの藁でこれを受けたのでしたが、藁は足らず、青痰はだらだらと破れ畳へこぼれるのでした。腐って凹んだ畳へ滲み込みながら暗いなかをこちらへも流れて来ます。これは堪らぬ。
わっ。
三たび叫ぶと、わたしは部屋を逃れ出ました。どっと嘲笑が後を追って来ました。真の仲間でない者に対する悪意の嘲笑でした。
宿の入口近く土間へ逃れ出ましたが外は雨でした。宿じゅうがジメジメしていました。秋の冷たい雨です。たじろぎました。濡れた土間には水桶が置いてありました。木賃宿の宿泊人は自炊です。これは自炊用の水でした。水でも飲むか。
しかしその水も口に近付けると饐えた臭いがするのでした。見ると蝿が何匹も浮んでいます。
土間には部屋へ上がれぬ半払いの人数がひしめいていましたが、一家族らしい四人が暗い灯陰の下で飯を喰っていました。周囲にはそれを羨ましげに見ている痩せた男女がいるのでした。だが羨望に値する食事でしょうか。それは明らかに残飯でした。交混した飯の中から喰い残りの魚の骨が汚く突出しているのを、家族たちは旨そうにしゃぶっているのでした。
こりゃ。あっち行け。うぬら餓鬼にやるもんないで。
突然、残飯を喰っていた色黒の女房が叫びました。近寄った他人の子供を追い払ったのでした。
三十何年たった今でも、この時の記憶だけは昨日のようです。ああ、恐しい、恐しい。これが当時の木賃宿の生活でした。貧乏。これは決して、恵まれた者が頭の中で考えるような、単に餓じいとか、寒いとか、心細い、などという単純なことではないのでした。心細い気持、などは贅沢のうちでしょう。目前には心細い風情などはなく、その場限りの生活だけがあるのでした。胸が悪くなる腐臭とも死臭ともつかぬえたいの知れぬ悪臭、べとつく汚れ、蚤虱の痒さ、瘡蓋だらけで絶えず青痰を吐く下品な病気の隣人、腐った畳、蝿の糞だらけの壁、鼠の死骸、糞尿でぬるりとした土間、汚水の混じった飲み水、腐った残飯と魚骨の夕食。邪険な女の罵声。
ありとあらゆる、浅間しく気色の悪いものが全部襲って来るのが貧乏というものでした。わたしは蹌跟として木賃宿を逃れ雨の中を鴨川の河原へでました。しかし、河原でも、
おい。
と言う声。蚤を厭って単衣を脱ぎ草むらへ振るった時でした。橋の下の闇から人影がヌッと三つ現れていました。
お前はん、ここへ寝る積りか。
そうだが。
そやったら誰の縄張りや思てんのや。只で済む思うたら間違いやで。
これまで河原をそぞろ歩きをしたことは何度もありますが、このような声が掛かったのは初めてでした。遊客ならば声は掛からないのです。遊客と宿無しと、その違いを気配で敏感に見分けて来たのでした。三人とも乞食の態でした。
ヤイ、ここはな、五条のお頭、沢兵衛様の縄張りやで。お許しなしで住み付くことは一夜でもならんのやで。挨拶して貰おか。お、お侍はんか。本物かどうか知らんが、ヘン、お侍でも宿無しとなりゃ同じことや。
翌、元治元年、蛤御門の敗戦の後、桂小五郎が乞食となってこの河原へ潜んだのは五条の沢兵衛の庇護があったからです。しかし、この夜のわたしは沢兵衛との事前の連絡はなく、ここでみだりに沢兵衛の名を出して見ても嘲笑を買うだけでしょう。
どうすればええのや。
知れたことや。銭や。
争えば、闇の中からどれだけ人数が出て来るかわかりません。害を加えれば蚤のような仲間につきまとわれ二度と京には住めなくなるでしょう。言うことを聞くほかないのでした。しかし、
アッ。
どうした。
さ、財布がない。
なんやて。どこで無うした。あんた、どこから来たんや。
あの先、丸やと書いた宿からや。
なんやて、宿。宿を取ったのんが、なんでここへ来たんや。
そ、それが、の、蚤が多うてな。
言いながら、我ながら場違いなことを言っていることを自覚していました。果たして、
へ、蚤で宿を出てきたんか。それで財布も抜かれたんかいな。あの宿屋の評判をを知らんのかいな。はつはっは。
へっ、へっ、へ。
ひ、ひ、ひ。
暗闇から嘲笑の渦が涌きました。
なんにせぇ、銭なしやつたら、あかんよ。行き、お侍はん。
事情が判明すると、なお同情がなくなりました。場違い者なのでした。階級が上の者に対して感情を共にする者は居ないのでした。
行き、行き。
どこからか石が飛んで、河原に当たり、跳ねてチャブンと水音がしました。
わかった。立ち去ろう。
わたしは再び川岸へと上がりました。どこへ行けばいいでしょうか。このような時でも淋しい方へ行く気は起こりません。眼を上げると川上、四条の橋のあたりが明るいのでした。足は自然にその四条へ向かいましたが、ぽんと町の先には加賀藩邸があります。それを避け橋を渡って祇園の方角へ進みました。しかし、祇園に近づくと目明かしが立っているのに気がつきました。ああ、やはり。
新選組の組長、芹沢鴨の殺害事件の探索は下火になり、あれは新選組の内紛であったとか、見廻組との衝突だとかいう噂は強く広がつて、長州一派の襲撃ではないという見方が流れていましたが、これに伴う浪人狩は止んでいず、その後の下宿の亭主や豆屋、仙などのおびえかたから見て危険は減少していないと見ていいのでした。これはいかん。
一応はそのまま進みましたが、祇園社を避け、細雨に濡れながら赤鳥居の前を左へ向かいました。しばらく進むと知恩院門前を経て青蓮院があります。
ああ、ここだ。
この春二月、十六夜の月光の中、わたしが桑名藩士松木七兵衛を斬ったところでした。
あの夜、白襷を締め死の覚悟を示していた首領。その人も今年六月、容堂公の命により切腹、既にこの世の人ではないのでした。
ああ、ここだ。ここだ。
あの時、皆とともに潜んだ楠の後に腰を下ろしました。葉の繁みで雨はきません。この場所こそは誰も来ぬ安全な木下闇でした。いや、敵味方、死霊ながらも誇りある者たちと共に、武人の夜を過ごせる場所なのでした。
南無 阿弥陀仏。
一夜のうたた寝をして、わたしはここで時を過ごしました。
翌朝、わたしは頃合を見て三条河原町、長州藩邸へと向かいました。三条烏丸の下宿を引払った今、縁のある行き所は他にないのでした。いまや土佐藩邸も勤王党は一掃され、敵の巣窟です。ブイに負担を掛けることはできません。
長州屋敷には旧知の寺島忠三郎がいる筈でしたし、それに、頼りになる訳ではありませんが、伏見の寺を出た梅野が行っているのでした。梅野は土方楠左衛門の姪です。三条実美卿の供で周防三田尻の招貿閣へ落ちていた土方の望みで三田尻へ行くべく、時期を待つため長州屋敷へ入っていたのでした。七卿落ちの政変に伴う、京よりの藩兵退去を受けて、長州藩地、特に来島又兵衛を総督とする三田尻の遊撃隊を中心に、挙兵上京論が強く、論争となっていました。その風雲の長州へ向かうのが、梅野の運命でした。
おうこれは。
運よく、寺島忠三郎は藩邸に居り、脇門の番士の案内で訪ねたわたしを迎え入れてくれました。
どうなされた。
いや、ご存知の雲行きで、都落ちの寸前です。御相談に参った。
とわたしは正直に打ち明けました。寺島は笑って、
それはよう来られた。春には斬られんで済んだケィのう、礼ぐらいせにゃぁのう。
高杉を襲った時のことを言っているのでした。汗顔のいたりでしたが、寺島は皮肉を言っているのではなく親切でした。
ちょうど良かったかも知れん。土佐藩の乾さんが来ちょる。
乾退助。土佐藩の上士、高三百石。下士たちの台頭を嫌って土佐勤王党弾圧に加担し、上士五十人組を結成した上士党の中心人物で、武市半平太の政敵でした。あの首領達の切腹に関与した小笠原唯八の盟友でした。一方わたしは大聖寺支藩の下士の出で、しかも武市派の働きに協力し、現に土方楠左衛門に繋がる脱藩浪人です。寺島の言でしたが、乾退助が来ているのが、ちょうど良かった、とは少しも思えませんでした。
が、長州藩は、どことなく気楽な藩風があり、寺島は、わたしの躊躇など平気で案内に立ちました。無関係の客を引合わせること自体当時の武士としては異質なことでしたが、勤王倒幕、諸士横行の長州では、そのような立前は壊されていたのみならず、政変後の長州藩邸は公式には留守居役の滞在が許されているのみで、寺島などは潜伏です。いわば非常の時期で、がらんとした藩邸の中は怪物の巣であり、立前などはないのでした。
これへ。
通されたのは長屋でも小部屋でもなく、広い廊下の奥でした。平生であればわたしなど通される筈もない区域でした。案内されたのはかなり広い部屋で、数人の武士が気楽げに座っていました。乾らしい客もその空気に融けて、くつろいでいます。寺島忠三郎は、わたしを座につけましたが、紹介もせず平気でどこかへ立去りました。
これは、暫くじゃのう。
と一隅から声が掛かりました。見ると、これも寺島と同じく、この春の三本木の吉田屋での会合に同席した旧知の入江九一でした。赤貧の足軽の出ながらあの座で高杉晋作にむかって、
先生も暗殺を目論んだお人じゃった。その為に斬られたんじゃ。高杉さあ、一緒にやってつかぁされ。
と涙を浮かべた男です。その入江は七卿退去の後も京都藩邸に潜伏した仲間で、久坂義助、時山直八、来嶋又兵衛らが帰国した後も寺島と共に潜伏を続けていたのでした。入江がわたしを一座に紹介し。
これは土佐の乾退助殿です。ご存知か。
あ、と思いました。この春、土佐藩邸に泊まった朝、容堂侯を先導し、あの屈強な茶坊主や梅野たちと一団になって去ったあの若侍でした。しかし相手はわたしを見覚えている気配はありません。
いえ、御名は存じ上げておるが。
乾退助は、近く見てもあの時の印象どおり、いかにも上士らしい色白、面長の取り澄ました男でしたが、頷いてわたしに向かい、
これは。拙者も貴殿の青蓮院での御働き、聞き及んじょる。
と言ったのには驚きました。勤王党の秘密をどうして知っているのでしょう。しかし乾は笑って、
ご心配はいらんきに。あの一件は当時は我が藩庁もひそかに同意しちょった。先般、平井隈山、門崎滄浪、弘瀬健太の三名が切腹となったが、ありゃぁ私に青蓮院宮の令旨を頂いた一件によるもんで、桑名藩士殺害の件とは関わりはござらんよ。
ああ、やっぱり。笠間金兵衛が言ったとおり、あの件は土佐藩邸ぐるみの企てであったのです。不本意なことでしたが一座の話題はあの一件となりました。
わたしが長州藩邸を訪れたのは実は腹をすかしてのことであり、借銀でもできまいか、と思ってのことでしたが、こう持ち上げられると、もはやそのようなことは言い出せません。苦笑して何も言わないでいるほかないのでした。
この時、控えの間の襖が開き、膝をつき茶盆を奉げた女が入ってきました。これは。梅野でした。衣装はすでに長州へ送ったと見え、前に見たことのある茶の土佐紬に、やや位高の銀鼠のつづれ帯、さすが容堂侯の側にいただけに選りすぐりのものですが、見た眼にはいたって地味な装いでした。髪は低い島田です。だれかが、
これは梅野サァ、茶とは有り難い。
梅野は盆を置き、手をついて一座へ挨拶をし、わたしへは目礼をしたのみで、
乾さま、暫くでございます。早うから、よういらせられました。
や、梅野どのか。全く暫くでござった。お元気じゃったか。楠左衛門の許へ行かれるそうじゃのう。おお、そうそう。こりゃぁ不思議の遭遇よ、この仁とここで会うたぁ思わざったが、梅野どのはこの勇士と一緒に伏見の寺で暮らしちょりゃったチ聞いたが、左様か。
と乾退助はわたしの方を見ました。梅野の顔が紅に染まりました。これは明らかに乾のいやがらせでした。いや、そうではないか。梅野は容堂侯の寵を受けた側女中ですが、反面いまや土佐勤王党の幹部となった土方楠左衛門の姪です。二度と容堂侯に近づく機会を与えてはならぬ、というのが勤王党を敵視している上士党の政策でした。あだかも下賎の者の情婦になったかのごとき印象を広めれば、その政策に適うのです。乾退助は上士党の組織者として、今、その挙に出たのに違いありません。
さすが一語を発する者の無いまま、梅野は黙って茶を入れて萩焼きの湯呑みを配りました。しかし乾退助は抜け目のない秀才です。二の矢を、今度はわたしに向けて放って来ました。
男山八幡でのお働きも聞いた。天晴のお腕前と承った。武道の御精進恐れ入る。お国許ではいかがな御役目か。
乾の質問は、わたしが下士の出であることを知った上で、同じ目的でその身分を一座に晒らし、梅野の立場をおとしめようとするものでした。
いえ、わたくしは三男で、たまたまのお雇いで出仕していただけの身の上です。役目ほどのものはありません。
ほ、お家は。お鉄砲のようにも聞いたが。
これも公然たる侮辱でした。お鉄砲とは足軽のことです。もっとも伏見の寺で土方楠左衛門に話した、大聖寺藩での鉄砲玉のことがあるため、報告の又聞きでそう思い込んでいるのかも知れません。事実、家の現在の境遇は残念ながらそれに近いあり様でした。それだけに黙ってはいられません。
いえ、わたくしの家は、代々、貝をもって仕えまする。
ほう。
と傍らから誰かの好意のある感嘆が聞こえました。だが、乾退助はそれを無視して、
それは。何流でござるか。
白山流の末です。
貝。もとより軍陣合図の陣貝のことです。明治の今日では軍のラッパは兵卒が鳴らすそうですが、鉄砲が発達し、相互の陣が遠い西洋流の故でありましょう。我国戦国の習いは異なります。ぼう、ぼうと鳴る貝の響は吹き手の怯勇が一軍に伝わるとされ、乱戦のなか主将の側近にあってその命令を貝に吹き込む者には剛勇無双の武者が選ばれます。その役目を家職として代々伝えるとなれば、これは武勇名誉の家であります。
戦国の世に、守護富樫氏を追い払い、尾山御坊に百年の猖獗を誇ったわが加賀一揆が織田信長の勢に破られ、やがて前田家によって下士の身分に落とされたわが家ですが、家伝の貝は禁じられることもなく、この日まで伝わっていたのでした。
白山に白雲の流るるごとく吹け。
わたしも家の子として暁の修行を重ねたものでした。
ほう。加賀の白山流。白山流の貝を伝えるとは古い家じゃ。して見ると前田家来着以前のお家柄か。
と、乾退助の言葉はやや柔らぎました。実に家柄意識の強い男だと思いました。もっとも、青年時代は不良無頼の乱暴者だったと聞いています。案外、武張ったことが好きなだけかも知れません。
左様か。いや、わたしの家も昔は甲州、武田家の臣、板垣一族と申すが遠祖でのう。
と言葉までくだけました。
盆片付けをしていた梅野がちらりとこちらを見ました。仮そめにも名を並べられた男の屈辱が晴れて、ほっとした顔でした。乾はなんと思ったか、
お使いになるも剛刀と聞いたが、それも代々のお刀か。
さようです。
それは。ぜひ眼福を得たいが。
どうぞ。
わたしは横に置いた大刀を手に取り差し出しました。前にも話しましたように拵えは大小揃った黒の漆塗りです。下士の身分ですから小柄や笄の作りは許されず緒通しのみですが、鐺にかけて銀砂が薄く掛かった加賀らしい華やかなものです。鍔が越前住、記内であることも前回申しました。記内はわが大聖寺藩の隣、越前に起きた金工で、赤鉄透かし彫りを得意とします。わたしのものは初代記内とは言えぬまでも古作で、家伝のものでした。図柄は雨龍の肉彫り地透かし。鍔裏の切羽台の、右に越前住、左に記内作、と分けて切った定法のものです。金象眼や覆輪など派手な作りでないだけに見る眼があれば人が羨むようなものです。
これは見事な。
今の藩では下士ですが地侍の末です。加賀一揆以前からの、と伝えられる、前田藩をはばかって寺預けとした山林田畑があり、その宰領の資格で実収があり、わが家の内証は豊かで家伝の財も多いのでした。家を出るわたしを母が憐れんで、選んで拵えてくれた大小です。
乾退助は左膝に刀を置き一礼の上、鯉口を切って一寸ばかり刀身を明けました。
かつて土佐藩の上士たちが容堂侯の好みで、本阿弥について刀の目試きを修行した、との噂は聞いたことがあります。刀身を一寸のみ抜いての鑑定は、将軍家刀剣御用、本阿弥家の権威ある作法です。書画でも有名な本阿弥光悦の創始になるといわれますが、一寸の刀身で全刀を鑑定するとは容易ならぬ業で、本阿弥でも高弟のみに許されている筈です。しかし乾退助はぴたりと閉じて、
相州綱広と見ました。
と申しました。持主の許しなく名を上げることの是非はありますが、この時の一座の雰囲気からは悪い感じはありません。しかも綱広は広賀の師といわれ、末相州ながら上物です。わざと刀の一段上の名をあげるのはこの場の作法で、乾退助は広賀を言い当てたことになります。大した鑑定眼でした。
とはいえ、鑑定は眼だけで見るものではありません。本阿弥光悦は刀を抜かず、半ば袋のまま手に持っただけで中身を言い当てたと申します。拵えを見ただけで中身の位は判断が付きます。陣太刀の作りか、刀の作りか。長さ、反り、太さ、重さ、これで時代の見当が付きます。源平時代であれば騎馬が主ですから陣太刀で長く、先軽るが特徴です。南北朝時代は大だんびらが流行し、戦国時代は実戦向きの中型。この頃から腰差しの刀が増えるのです。江戸期の新刀は却って古刀の写しが増えるのですが、拵えの位が異なるのが普通です。
持った手ごたえ、軽重のはずみ。ふんばり。
持主の地位、人品。名乗らずとも家紋のみでも推測が付きます。本阿弥は将軍家御用です。大名の領地、旗本の地行所、家の来歴も熟知しており、どの家にどのような刀が伝わっているかもほぼ知っているのでした。
刀匠の名は元より諳んじていて、系譜、地付き、用鉄、鍛法、全てを時代別に知っております。
なあに、手に持つだけで、刀鍛冶の名が十くらい浮かぶんや。持ち込んだ相手の面を見い見い、山勘で名を言うたら、大ていは当たるもんや。
と光悦は嘯いたと申します。まして刀身を一寸も見れば過つことはなかったのでしょう。
乾退助はもとよりそうはいかぬでしょうが、一寸の刀身を見て相州物の判断くらいはついたのでしょう。わたしの身分を考えれば、まずは末相州か。末相州は駄物が多いのですが、拵えの良さと、刀身の良さ、加えて聞いたばかりのわたしの出身を考え併せて、末相州の上物。ここまで判断すれば綱広の名は自然に浮かびます。板目の地、ぐの目の刃紋、肉の厚み。綱広か、小田原相州か、伯耆広賀か。
と、ここまでの見当を付けて、綱広、と発言したのでしょう。さらに、
御免。
と声を掛け、すらりと抜き直して目前に立てました。既に綱広、と名当てをした後ですから、作者がわからぬ場合ではなく、これは全刀拝見の作法でした。まず峰。刃を返して姿を見、さらに地肌、刃紋、鋩子。
うむ。長巻直しの鵜首ですね。短い身ながらこれは剛刀。
はい。鋩子の刃の、返りの焼きが甘いんが気に掛かっとりますが。
いや、この鵜首の厚みなら打ち合うても折れ飛ぶことはないきに。しかもこっちの面は鋩子の焼刃が峰まで返って地を人型に抜いちょる。心配の要らぬ名刀です。得物じゃ。
じつは広賀と伝えておるもので、家伝のものです。
これが家伝。さても御武勇のお家柄。
と乾退助は態度を改め、作法どおり背を返して納刀しました。一座の長州武士たちも一礼を加えるのでした。
さきほどの貝の話だけなら、それこそ法螺ということもあり得ますが手に取った刀は実証です。乾退助は満足し、くつろぐ様子でした。前後の振る舞いで乾退助がひとかどの武士であることはわかりました。この夏、国元で中岡慎太郎と提携したとのことで、下士の台頭を許さぬ上士の立場ながら、長州に逃れている中岡の取り持ちで桂小五郎に会いに来たということでした。しかし既に用件を終えていたらしく、萩焼きの茶をのむと、そろそろ帰る気配を示しました。寺島忠三郎はあのまま現れません。わたしも、こう持ち上げられた揚句では、銭の無心などできるものではありません。さて、どうしたものでしょうか。
一、
- 2009/07/01(水) 19:59:38
方広寺界隈はひっそりしていました。
一月前の、はぜる篝火に武装した兵馬が照らされ、ひしめき合った情景が嘘のようでした。
文久三年八月十八日、七卿落ちの政変の夜。
一朝にして朝廷を追われた長州勢は、方広寺の別当寺、妙法院を本陣として、ここに軍陣を結集、馬はいななき、あわや一戦かと思われる情景となったのでした。
あの夜、わしも朝まで、ここに居ったど。
と言ったのはブイです。
そうか。土方さんが馬に蹴られた、というのは、ほんまかね。
ちがう。かわして、少し当たっただけじゃ。
藩命で三条家の衛士となっていた土方楠左衛門は、翌十九日暁、三条実美卿ら七卿に従い、煙る細雨の中を長州勢と共に兵庫へ落ち、船で長州藩地へ向いました。その折の楠左衛門の指示を忠実に守り、ブイは土佐藩邸の非番ごとに、わたしに付いて、まるで従者のように働いてくれているのでした。
ぶらぶら歩いて橋を渡れば、鴨川の向うは五条橋下の色町です。化粧を落とした女達が尻まくりで拭き掃除をしていました。娼婦達は身を売るだけではなく、労役にも使われているのでした。もっともランプの普及した今日と異なり、その頃の廓や女郎町は昼遊びが主、夜は大尽遊びをせぬかぎり安遊びとなります。この女たちも間もなく化粧して店に出るのです。昼間の自堕落な風情でしたが喰物屋は開いていました。
飯を喰おうか。
と言ったときでした。柳の向こうから狭い道を数人の物々しい武士の一団がやって来ました。
待て。
先頭の武士が厳しい眼をして、わたしの前に立ちました。黒羽二重の紋服を着、差した大小の拵えも良く一かどの身分と見えましたが、その後に従う者は粗末な着物を着崩した者もいて、ばらばらと、えたいの知れぬ一団でした。
はて、何事ですか。
先頭の武士はわたしの後を見ました。振返ると黒い服装の町人が一人、近付いて来ました。
さては。尾行されていたのでした。油断でした。町人が武士に向かって肯きました。武士も肯き返して、私に向き直り、
われらは京都見廻り役、蒔田相模守様輩下の者だ。役儀によって尋ねる。藩、姓名を名乗られよ。
はて、迷惑千万。
迷惑とは言わさん。妙法院へは何用で行かれた。
この町人は妙法院を見張っていた目明かしなのでしょう。天台宗門跡寺、妙法院はいまだに長州藩と連絡があると見られているのでした。これは逃れられぬな、と思いました。蒔田相模守といえば備中浅尾藩主です。浅尾藩はこの年、文久三年に新設された話題の藩、高一万石でした。相模守が幕府から京都見廻り役を命じられた話も聞いていました。この武士たちはその召抱え、後に有名になる見廻組でした。
文久三年は勤王党と幕府方が激突した年です。
前年十二月には会津藩主、松平肥後守が京都守護職に任命され、明けてこの文久三年三月には新選組の結成。さらに二月遅れた五月には新大名蒔田侯支配の、この見廻組が入京し、八月十八日の政変の勝利を経て、幕府の警察制度は完成の域に達していたのでした。
土佐のもんじゃ。
横から突然、ブイが声を上げました。わたしを助けようとしたのでした。
ほ。その言葉付きは、どうやら土佐者らしいが、貴殿は違う。
武士はそう言って、わたしに詰め寄りました。逃げる方法はなさそうです。青蓮院門前の松木七兵衛を討ち果した一件をはじめ、幕府の眼から見れば重罪を重ねたわたしです。捕えられれば無事ではすみません。
いや、言い訳はいたさぬ。じつは、子細あってのこと、御見逃しを願いたい。
わたしは深々と頭をさげました。
ならん。
しかし、わたしに深く頭を下げさせたのは相手の武士の失敗でした。
居合、上意討の型。
挨拶の、低い姿勢から突然、抜付ける刀法です。
一瞬遅く、相手も気付きました。体を捻り、鞘尻を上げた型を見たのでしょう。半歩下るのを追詰めます。体を低くしたまま鯉口を切って押さえたわたしの抜打ちを避ける術はありません。相手が受けの居合を切ったとしても、こちらが早いことは明白でした。
しかし殺傷沙汰の惹起はこの際避けたいことでした。相手の気が憶したのを見取って、わたしは体を起しました。間合は詰めています。刀から手を離しても居合の腰は定めてい、相手の動きは許しません。
動けば斬られるだけです。動けぬ。それだけのことは分かる武士でした。
しかし背後には部下がいるのです。どうしたらいいか。判断を失った様子でした。わたしも瞬間、迷いました。どうするが得策か。
と、相手の身が、がたがた慄えはじめました。
これはよくある事でした。この武士が弱いのではありません。むしろ相当の使い手でしょう。しかし迫った刀は怖しいものです。一たん気を喰われてしまうと、こうなるのです。こうなると力は出ません。
慄えは収まらず、次第に強くなります。いかん、と思っても自制できないものです。
その時、目明かしがパッと逃げました。早い逃足でした。
しまった。
敵を斬って逃げるしかない様相となりました。すぐに応援が来るでしょう。その時です。
おい、どうした。
と頭の上で声がしました。思いがけぬことでした。すでに気力を失っている相手から、わずかに眼をはずして上を見ました。
あきれたことに、汚い女郎屋の二階から顔を出しているのは、笠間金兵衛でした。
待てよ。今行く。
居合は一気の業です。待つ、という事態ではありません。わたしは斬る気を捨てませんでした。が、すぐに金兵衛が下りて来ました。藍縞の着物に黒の紬の袴、刀は一本差しですが、思いのほか決まった身づくろいでした。
委細は上から見ておった。御見廻り御苦労でござる。しかし御心配はいらん。われらは加賀藩。この者も同じで、役目の者です。
と落着いた挨拶をしました。様相は変わりました。蒼白になっていた見廻組の武士も気を取り直し、ホッとした様子で、
左様でしたか。それは。
加賀藩は国一番の大藩です。しかも婚姻政策を重ね、女系によって御三家よりも徳川の血が濃いといわれる藩です。これまでの藩の行動から見ても佐幕の重鎮と思われていました。今、命懸けであった武士がほっとしたのも無理はありません。
正に命懸けの一時でした。しかし外見は先程から何も起っていないのでした。武士の背後にいた三人は事態がよく飲み込めていず、危機を感じたのは目明かしだけでした。事なしという形で済めば、何事もありません。
いや、それは御無礼でござった。
見廻組はこの春以来、江戸で旗本の子弟のうちから武術に優れた者を集めた、となっていますが、実は人数が間に合わず、上京後、浮浪の徒を加えていました。しかしこの武士は旗本の口でしょう。腕が立つことは、わたしの居合の構えを察した事でわかります。
とはいえ江戸からやって来たばかり、京の物凄さが分っていなかったのです。むろん、人を斬った事はないでしょう。この二年の間の、大獄の余波と、土佐藩の武市半平太、長州藩の久坂玄瑞らの指揮する天誅による京の殺気、殺伐が見廻組に乗移るのはもう少し後のことで、死地を経たわたしなどから見ると気の毒ながら笑止の相手でした。
しかしまた、笠間金兵衛は。
この男が五条界隈にいることはわかっていました。この春、わたしの許から去った端女、とくらしい女を仏光寺付近で見掛けた折、金兵衛が姿を現わしたのも、そういえば五条の方角からでした。三本木、吉田屋での久坂玄瑞や高杉晋作らとの会合の後、道で新選組に出会った夜、金兵衛が姿を消したのもこの方角でした。あれ以来、五条の色町に巣喰っているのでしょうか。
ともかく金兵衛は平気な顔でしたし、見廻組の武士も何事もなかった振りをし、立去るのでした。
なかなか見事な腕やな。
冷やかさんで下さい。
金兵衛は居合の達人です。日頃の稽古をしていないため体はわたしほど動かぬでしょうが、眼は鋭い筈で、上から見られたのですから笑っているのかも知れません。
後の面倒を避けるために、五条の沢兵衛の屋敷へ行くことにしました。逃げた目明しに話を付けて置かねばなりません。目明かしどうしの付合いは難しいもののようですが、五条から七条へ掛けての頭、沢兵衛の屋敷へ隠れれば厄介はないでしょう。五条橋下の色町は地続きの七条新地の支配で、ここの妓夫も、一帯の目明かしも、川棲みの出で沢兵衛の配下です。あの目明かしもその一人かも知れません。
歩き出すと女たちだけでなく妓夫まで金兵衛に会釈します。遊客にはへらつく妓夫太郎たちも昼間、近くでみると色白な奴まで無頼漢じみた不気味な顔をしています。
顔、えらい効きますジ。
は、は、は。こんな所に巣喰うて、ただ遊んどるがと違うザ。
金兵衛が言うとおり、現にわたしが窮地を救われたのでした。
こう行っか。
目指す五条の沢兵衛の屋敷は蜘蛛の巣のように八方に広がった迷路のかなたです。何度か行ったことのあるわたしですが、いつも別の道を案内され未だに方角も分かりません。しかし金兵衛は通暁している様子でした。
なあ。京も勤王党には窮屈になって来たな。今の見廻組だけやない。新選組もこないだの働きで、幕府から正式に沙汰を受けて役目が認められたらしいワ。負けた長州屋敷の方はあの後、留守居役と小者の残留が許されただけヤ。まあ、実は久坂玄瑞も来嶋又兵衛も、潜伏しとったらしいけどな。せやけど正式には動けん。うっかり会いもできん。土佐も勤王派は皆国へ帰されて三人切腹、大目付の小南五郎左衛門も免職謹慎で、武市半平太も危ないそうな。薩摩もあのとおりや。西郷吉之助は島流し、久光公の勢いナ強うて、精忠組の連中も腰が引けたままや。残念やが今は京には仲間は居らん。おまん、これからどうする気や。
勤王党も潰れてしもうて、これからぁ手当も出ませんやろな。
うん。その話しもある。これからも渡せるか、渡せんか。
どんな話しですか。
そりゃ、後から言う。
と金兵衛は急に黙ってしまいました。脱藩して笠間金兵衛の手に付いてこのかた、わたしが金兵衛を通じて勤王党からの手当を受け取っていたことは前にお話しした通りです。これは気掛かりなことでした。こうして二人とも黙って向かう、五条の沢兵衛の屋敷への路の様子は前に申したと同じですが、昼間見ると、惨めな浅ましい家並み、数多い住民の敵意の視線、汚物、悪臭がひときわ強く迫るのでした。
沢兵衛の屋敷では、主は留守で、下役の吾十郎と言うのが応対に出ました。ずっと下がっての挨拶でしたが、番頭ですから虚空などと違って座敷の上でした。金兵衛が、
今日は大和の一件の様子を聞きにきた。
へえい。御一同様、天誅組と名乗らはったと聞いとります。さりとはお気の毒な成行き、幕府の大軍に迫られて、きつい負け戦の御様子と聞いておりますで御座ります。せやけど昨日帰った探索の話では、中山様は御無事は間違い御座りまへん。
そうか。中山忠光卿はご無事か。他の諸君はどうやな。
この屋敷へ見えたお方は皆様、御行方が知れぬ様子で、討死の噂も聞こえましてござります。藤堂藩やら紀州藩やら、大軍に山全体を囲まれて、はや、助かり様はないとのことで御座ります。
そうか。やっぱし吉村寅太郎も死ぬか。松本奎堂も。
七卿落ちと前後して、天誅組の大和挙兵、そして壊滅があったのでした。その様子を確認する必要があったに相違ないので吾十郎に対する金兵衛の態度は自然でしたが、主の沢兵衛の帰りを待たないとほんとうの用は足らないのでした。しかし、親しかった吉村寅太郎や既知の松本奎堂らの失敗、苦戦を改めて聞くと、噂で半ば覚悟していたとはいえ胸が痛みました。一緒に呑んだのはつい先頃でした。
天誅組は、勤王党が画策した大和行幸と機を合わせ、この秋八月十五日、大和五条に代官を斬って兵を挙げたのでしたが、思いがけぬ八月十八日の政変により大和行幸は突然中止となり長州勢は京から敗退、天誅組のみが孤立して十津川の山地を転戦するものの、村民らの協力もやみ、幕府の大軍に囲まれて孤軍力尽き、この後九月下旬ついに全滅するのです。
残念やけど吉村も焦ったなぁ。
そうですね。
天誅組は、長州藩を中心とする勤王党と連絡を取って挙兵したのではなく、大和行幸を画策していた勤王党の軍師の真木和泉が驚いて、腹心の平野国臣を派遣して制止しようとしたほどの独自の突出でした。思えば、吉村寅太郎は土佐の庄屋、松本奎堂や藤本鉄石は藩を離れた浪士、他の者達も似た立場の者で、長州藩が牛耳を執る勤王党の主流と一線を画す気持ちがあったのでしょう。
わたしたちが話しを始めるのを見て吾十郎は引き下がりました。
この文久三年は残暑の厳しい年で、しかも雨上がりの日でしたから蒸し暑く、襟をくつろげて風を入れました。七卿落ちの秋は暑い盛りでした。
暑いな。
暑いですね。
冷風呂でも用意してもろうて入ろうか。
しかし暑暑をぼやいても仕方がありません。口で言うだけで、話を続けました。
三条卿の御一行は、落ちて周防の三田尻へ行かれたそうですね。
うん、そう聞いた。土方楠左衛門ら勤王党一同がお伴で、長州公のお茶屋が屯所になっとるそうや。招賢閣と言うそうな。
勤王党も当分は長州だけみたいですね、それも藩地へ逼塞ですか。水戸はどうなったんでしょう。
水戸の天狗党も長老の武田耕雲斎が慎重で動かんようや。右を見ても左を見ても、勤王党の動きは止まった。せめて天誅組の失敗がなかったらな。惜しい仲間をアッタラ、死がせるもんや。
死にゃせん。
と横から怒ったような口を出したのはブイでした。口が重く、立場をわきまえてもいたブイの滅多にない口出しでした。
うん。
と金兵衛が黙りました。天誅組は吉村寅太郎をはじめ那須信吾、安岡嘉助、上田宗児、池内蔵太ら、土佐藩士の参加が十七人と最も多く、これを苦慮した土佐藩邸の厳しい取締で、土佐人全員の足止めとなり、仲間の運命を気遣ったブイたちは空しく天に祈って今日に到っています。その苦悩から思わずでたブイの、死にゃせん、の一言に、金兵衛といえども暗然と黙ったのでした。
しかし祈りは祈り、天誅組の壊滅は否みようがない事実でした。勤王党のほとんどは長州藩地へ逃れ、薩摩、土佐の両藩をはじめどの藩も今は佐幕の立場となっています。この京洛の地も会津、薩摩両藩の兵力を主柱とする幕府側が制圧しているのでした。所司代や東西両奉行所だけではなく、新設の見廻組や新選組が働き出しており、一年前の勤王党による天誅騒ぎが嘘のようでした。この有り様で、残ったわたし達はどう出ればよいのでしょうか。
ああ、やはり幕府は天下の主。強いのでした。これが変わるはずはありません。勤王党などは、石灯籠に寄る蟻のようなものでした。
しばらくして昼食が出ました。
こりゃ、沢兵衛は遅くなると見えるな。でなけりゃ、こう手回しよう飯は出んやろ、まてヤ、儂らを避けとるがではなかろうかな。
まさか。
いや、わからんざ、有るかもしれん。この形勢や、勤王党はお尋ね者になった。一統を預かる沢兵衛が軽うは動けんとしても仕方ない。
しかし、三人が食事を終わった頃、案ずるまでもなく沢兵衛が顔を出しました。例によって丁重な挨拶の後、
えらい事が起こりましてござります。昨晩、新選組の屯所が襲われまして。
なに。
組長はんが殺されました。
組長。
へえ。芹沢鴨いうてお方でござります。
あの芹沢が、か。襲うたんは誰や。
長州の一派やろ、ゆうて大調べが始まっております。あちこちの御浪人方に対しても見付けしだいの厳しいお調べのようで、今は迂闊にお歩きにならんほうがよろしいやろ存じます。
さては。さっきの見廻組の調べもそれか。
沢兵衛に先刻、見廻組の詰問を受けたいきさつを話し、逃げた目明かしに対する手配を依頼しました。沢兵衛は、それは安いこと、と請け合って、それでも気をお付けになりまへんと、と気遣うのでした。
いつか、三本木で久坂玄瑞や高杉晋作、それに今も話題にした吉村寅太郎らと会合したあの夜、帰途に暗がりの道で出会った芹沢鴨の異様な風貌を思い出しました。時勢の変転は激しく、親しく挨拶を交わしたあの浪人達が、今は新選組となってわたし達勤王派と対立しており、しかも今回は襲撃を受けて組長の芹沢が殺されたというのです。
それはえらい事やな。しかし長州勢は皆引き揚げて今それだけの連中が残っとるようにも思えんけどな。
と金兵衛が申しましたが、久坂玄瑞、木嶋又兵衛、寺島忠三郎ら十数名が窃かに七卿の供から離れ、兵庫から京へ引き返し長州藩邸に潜伏している筈でした。嘘を言ってみても、これは沢兵衛も知っているでしょうに。
久坂はお医師の身分を脱して上級武士の組、八組こと大組へ編人の後、この夏には玄瑞という坊主名を捨て義助と名乗っており、鋭気は益々盛んです。久坂玄瑞、寺島忠三郎といえば先年からの京における斬奸天誅の主役をとった猛者たちです。この連中がやった、と考える方が自然でした。しかし犯人が急に判明するわけはなく、わたし達に対しても取締の手は迫ると思わねばなりません。そのような事件が起きているのであれば土佐藩邸でも非番の者にも呼集が掛かっているやも知れぬ、とブイを先へ帰し、わたし達も帰途につきました。
新選組を襲うたとは、機先を制しましたね。
このところ目にあまったもんな。
新選組が真に力を出すのは翌年、元治元年からのことです。この頃はまだ寄せ集めの浪人団で、頭領の芹沢鴨の乱暴で嫌われていました。
たぶん、久坂さんたちでしょう。
いや、久坂は五日前に長州へ帰ったぞ。木嶋又兵衛もや。五、六人帰って行った。残っとるがは寺島忠三郎かな。しかし寺島だけではな。ひょっとすると十津川で囲まれとる筈の天誅組の誰かが血路を開いて京へ引き返したんかもしれん。それに新選組に内紛の噂もある。誰がやったか速断はできんザ。
そうでしたか。久坂さんらも帰国ですか。京は益々淋しくなりますね。
そうやな。時に、おまんはどこへ帰る。
三条の下宿へ帰るつもりですが。
いや、それは危ないやろ。芹沢をやったんが誰にせよ、取締はあると見んならん。前に目明かしに探られたことがあるんやろ。
そうですね。わたしも五条へ行っていいですか。
女郎屋へか。それはいかん。一番危ない。さっき見廻組に見られたやないか。あのまま済むはずぁないぞ。わしも帰らん。いいか、用心せえや。女郎屋、髪床、風呂屋、質屋、みな奉行所の手先や。家主ちゅう商売も同じ思うて間違いないザ。
こうして話が目前の事実に及んで来ると、京の情勢の厳しさが身に滲みてくるのでした。考えてみれば沢兵衛も気をつけろとは言いながらも引き止めはしませんでした。土佐屋敷はもとより、長州屋敷も匿ってはくれないと思わねばなりません。金も大してなし、さて、どうしたものか。
なあ、勤王派は大てい国もとへ引き揚げた。おまんも大聖寺へ帰るか。
いえ。
兄嫁との事があり家を出たわたしでした。しかもその兄が病死し、若年の甥が家督を継いでいるのです。老母は気を揉んでいるでしょうが帰ることのできない家でした。
どうしる。
ま、危ないか知れませんけど、一たん下宿へ帰って用意して、伏見の寺へ行って見ようか思います。
下宿へ帰れば仙と連絡がとれ、手伝わすことができますし、伏見の寺には土方楠左衛門の姪、梅野がまだ、客分とも働き手ともつかぬ形で残っているのでした。こう申すと女ばかり追っているようですが、そうではなく、ほかに手蔓がないのでした。
そうか。行って見るか。けどな、三条家の菩提寺ゆうても三条家が今の有り様や。楠左衛門もおらん。寺ちゅうもんは金が物を言うところやぞ。万一に冷遇されても驚くなや。
笠間さんは、どうしる積もりですか。
わしか。わしはな、
と金兵衛は言葉を切り、じっとわたしを見ました。
わしはな、加賀屋敷へいく。なあ、おまんも来んか。
な、なんでですか。今更なんで行けるがですか。
びっくりしるがも無理やない。まあ聞けや。
聞けや、といいながら金兵衛は黙って歩きました。四条木屋町へ入ろうとしていました。そういえばこの先、河原町には長州屋敷と並んで加賀藩邸があるのでした。
なあ、何ちゅうても儂ら元々は加賀のもんや。支藩に仕えたおまんも同じや。勤王はもちろんやが、この雲行きになると、加賀に割拠も考えんならん。高杉晋作が長州割拠を唱えたんと同じや。高杉の、天朝は当てにならん、ゆう言葉は当たった。吉村寅太郎ら天誅組の連中も天朝を当てにした為に孤立して死ぬんや。こうなると丸きり藩を見捨てるわけに行かんザ。いざとなったら、北国の藩へ割拠して勤王や。
そ、そうかて、顔を出したら捕らえられて国送り、斬られるんと違いますか、掟を破って脱藩したわたしらですもん。
そこや、聞いてくれ。わしも元々は黒羽織党や、そこらの話はついとる。
えっ。
黙ってついてこいや。
一たい、どういう事ですか。
わたしは白けていました。奇怪な話でした。どうもこの笠間金兵衛は、上士面はやめぬし、得体の知れないところがある、とは以前から思っていました。その本人が、加賀藩邸と繋がりがある、と自分で言い出したのです。加賀藩は佐幕です。やはり姦物でした。前から何度か、斬ろうか、と思ったことがありましたが勘が当たっていたのでした。それでも念のため尋ねました。
笠間さん、まえから藩と繋がりがあったがですか。
誤解せんでくれ。儂は勤王党や。加賀藩にも勤王党はある。儂はその一員や。とは言うても今の藩内で表向き勤王では動けん。他藩の勤王党との繋がりも付けんならん。そやさかい藩から出とった。けどな、天下の動向も見当ナついた今や。いったん藩へ戻ることになる。
わたしは血が逆流する思いでした。ではやはり、金兵衛は藩の手先だったのです。佐幕と勤王と。加賀藩のいつものやり方、両天秤かける政略の犬だったのです。金兵衛を睨むと金兵衛も真剣な顔で見返してきました。大髷の蟹武者めいた顔は引き締まり、皮膚が緊張していました。
なぁ、天下は難しい時や。せやけど加賀も他藩からナメられてばっかりはおらんザ。加賀の黒羽織党は天下を睨んどるがやぞ。勤王を捨てるんやない。力をためて打って出る。七尾の港に出来た軍艦所の話は聞いたか。頼む。分かって、手助けしてくれや。
手助けをしてくれ。これではますます本性を現したことになります。わたしは立ち止まりました。近くから三味線の音が聞こえます。ぽんと町の昼遊びでしょう。
断ります。わたしは天下の勤王党のつもりですザ。加賀藩の手先にゃならん。わたしら今は軽輩でも、先祖は南無阿弥陀仏の旗に集まった加賀一揆の残党や。あんたら前田家恩顔の侍とは違うんや。動くんなら本願寺さんと動く。お西が勤王の今、これしかないんや。
ほんなら、西本願寺へ行く気か。行くなら声は掛けるが。
これを言われると言葉が詰まりました。菩提寺は確かにお西の寺ですが、背いて家を出たわたしです。菩提寺とは何の連絡もなく、従って本願寺とも自分では繋がりはないのでした。
笠間さん。あなたがこれまで繋がっとった勤王党はお西ですか。
毎月の手当のことかい。
それもあります。
は、は、は。やくたいもない。土佐の勤王党、長州の正義党、薩摩の精忠組、水戸の天狗党。それぞれの党はあっても天下一般の勤王党なんど、どこにもないぞ。西本願寺といえども勤王の中心でも何でもない。昔、梅田雲浜が奔走して浪人の勤王党を作り掛けたこともあったけど、安政の大獄で潰れたことは知っとるやろ。
ほ、ほんなら。
当たり前や。おまんに渡っとったんは加賀藩の金や。ほかに出どころがあるか。おっと。
憤怒のあまり刀に手を掛けましたが、金兵衛はすでにわたしの右へ廻っていました。明治も三十年の今は剣術も衰え心得を知る人も少なくなりました。抜き打ちに備えて刀の外側、左に立つべし、などと言う人がおりますが逆です。左にいれば相手の右手の掣肘ができず、また居合には左打ち、左逆刺し、つか討ち、こじり打ちと、技も数多いのですから、刀から少しでも遠い右に立つ方がよいのです。金兵衛は居合の達者ですから心得たものでした。これを斬ることはできません。刀から手を離しました。
またな。
そういって笠間金兵衛は離れて行きました。三味線の音は賑やかで、顔色を変えたわたしを色とりどりの女達が気味悪げに避けて通るのでした。これまで笠間金兵衛の運ぶ手当金を当てにしていたため、使い果たして懐には三分と二朱余り、下宿の払いはまだ先ですが、仙の給金の日は迫っていました。が。
加賀藩の金。
勤王党で働いている積もりだったわたしは、犬の手先になっていたのでした。
二、
- 2009/06/08(月) 19:57:42
寺では朝早く読経が始まります。松に囲まれたこの寺は曹洞宗の禅寺で、宗旨の異なるわたしには知らぬ行事が多いのですが、まず開経偈、やがて般若心経に入り、ゆっくりした木魚の一打、一声、
観、自、在、菩、薩。
行、深、般、若、波、羅、密、多、時。
と続きます。わたしども他力の信者、門徒は般若心経を唱えませんが、色即是空、空即是色、と有名な文句があり、いやでも般若心経とわかります。和尚の太い声の響きが庫裏の裏、この離れまでよく聞こえるのでした。が、朝とはいえ夜明けです。禅坊主の真似はできるものではなく経を夢うつつに聞きながら再び寝入り、眼覚めたのは日も高い時分です。
お目覚めかのう。
傷付いて淀河原の仮小屋からこの寺へ運び込まれたわたしに代り、淀探索の命を受けていた長州藩、吉田稔麿。痩形の人で、黒の綿服に縞の野袴という身拵えでした。部屋へ入り手早く蚊帳を外し、縁側で振って畳んでくれました。
吉田稔麿、この時二十三才。ただし吉田は自称で、名は栄太郎、正式には苗字も許されていぬ、ブイと同じような傭小者身分の志士でした。二石四斗二人扶持の足軽の長男です。もっとも若年より松下村塾に入り、軽輩ながら抜群の知能をうたわれ、久坂、高杉、入江と並ぶ塾の四天王の一人として松陰に愛されていました。松陰の刑死の後、同志からも藩からも離れ姿を匿しましたが文久二年、松陰慰霊祭に姿を現わして一党に復帰し活躍を開始していたのでした。
藩から苗字が許され、晴れて吉田稔麿を名乗ることができたのはこの先、七月に入ってのことです。それから一年もせぬ元治元年の夏、あの池田屋の会合に参加し新選組に襲われ、重傷を負い長州藩邸へ駆け戻るも、織江美乃、桂小五郎の指揮する藩邸の門は開かず、門前で自刃したとも、あるいは小門は開いたが事件の報告を遂げるや仲間を助けるため槍を持って引き返し斬り死にしたとも言われ、確認されないまま二十四才で死ぬ人です。
わたしの後を受けた数日の探索の後、昨夜はこの寺へ泊まったのでしたが、今日も朝から出て行くのでした。
この塩梅なら雨は降るまい。
二三言葉を交すと吉田栄太郎は元気に出て行きました。斜めに背負っている風呂敷は、昨夜、塔頭の大黒さんに作って貰っていた梅干入り紫蘇混じりの握り飯でしょう。
わたしの傷は撃たれた左腿が腫れ上がり、動きも出来ないのでしたが、吉田栄太郎とは気が合い、その見分を聞くだけで淀の有様はよく分かるのでした。
吉田の話では時山直八も、奥正寺を本陣とする小笠原図書を刺そうとして淀城下に潜入しており、また吉村寅太郎、松本奎堂らの、後に天誅組となる同志一党も同じ目的で伏見まで来ていたが、これは奥正寺附近を探索の結果、実行は困難と見、やがて長州へ向かったと言うことでした。
一方、幕兵と京都との間では、騎馬の上士たちが何組も慌しく行き来しているとのことで、何時、何が起きるか分からない状況でした。
その日の午後、所在ないまま、床の間の古い書軸を眺めていました。達筆で始め読めなかったのが、毎日眺めているうちに次第に読めてきたもので、
四百餘州地汾ヽ咽戦塵国民称萬億未見一忠臣
とあります。禅寺らしくないものでしたが、勤王派の寺ですから、これは楠公のごとき人物を待望する心を表わしたものでしょうか。出典はなにか、左伝にでもあったかな、いや、それにしては文章が新しい、明末のものかな、などと考え、とやこうしていると、表で土方楠左衛門の声がしました。思い掛けぬ人がやって来たのでした。楠左衛門はすぐ和尚と共に姿を現わしましたが、和尚は挨拶のみで退席しました。
いかがでござる。まず具合はよさそうな。安心しました。仲々よい部屋ではござらぬか。この寺は三条家に縁の寺でして、気楽に居ったらようござるよ。
といい、ふと床の間の軸に眼を止め、あ、これは三条実萬公の筆ですな。実萬公の筆は御家流でありながら御家流を抜け出す雄渾なもので、すぐ分かる。さすが伊井大老に屈することのなかった御方の筆跡でござる。
と暫く眺めていましたが、たちまち朗々と読み上げたのには驚きました。
四百餘州の地、汾ヽとして戦塵に咽ぶ。
国の民、萬億と称するも未だ一忠臣を見ず。
これは真木和泉殿にでも見せたいような軸ですのう。和泉守は今、京へ向かっておるそうな。あの人物が来れば何かが起こらずにはいまい。貴殿の負傷もそれまでには癒えよう。
不覚の負傷で面目ない。
なんの、良うおやりになった。報告も聞いていますよ。
わたしとしては、長州藩邸へ報告したのみですから、楠左衛門の聞いた報告とはブイからのものでしょう。
じゃが、鉄砲のことが要領を得んきに、それを聞きに出向いて参った。かなりの早撃ちであったようじゃの。
この質問は本来なら長州藩邸へ照会して貰うのが筋のことでした。しかし土方楠左衛門には話そうと思いました。楠左衛門が発言力を持つことは勤王党全体にとって望ましいことでした。
ほとんど即座に撃って来ましたよ。
ほう。幕府が講武所の兵に持たせたのは雷管式のげえべる銃の筈じゃ。先込めではあるが、以前の火縄げえべるとちがい早撃ちはできよう。
げえべる銃やと思います。腰撃ちでなく狙い撃ちのようでした。
銃の数は。
兵の数に近い感じでしたね。
で、取り出した弾はどうなされた。
長州藩邸へ差出しました。
ごもっともな事です。取り出すときはさぞ痛かったろう。
いや一向に。
と嘘をつきました。楠左衛門は笑って、
さようか。じゃが、弾はどのような弾でしたか。
ひしゃげてはいたが丸弾です。
丸弾。ではやはり、げえべるですのう。取り出したは弾だけですか。木くずなどは無かったか。
いや、着物の糸屑ナあって、これも取り出して呉れました。手当てをしたんは虚空の仲間の馬医者ですが、糸屑が残ったら危かったと、後で寺で呼んで呉れた蘭方も言うとりました。
楠左衛門が聞こうとしたことは分かっていました。脱藩する前、大聖寺藩が新式めにえ銃の弾を手に入れ、鉄砲方に廻って来て、わたしも弾を見たことがあります。旧式の丸弾ではなく椎の実形の弾で尻に木栓のある変った弾丸でした。楠左衛門は、傷口にその木片の屑が残ってはいなかったか、万一にも幕軍の銃が新鋭のめにえ銃に変っているのではないか、と用心をしているのでした。
その後、小笠原の軍は淀から動かんそうですね。
左様。在京の老中や会津侯らの、入京阻止の動きが激しいそうな。じつは今日あたり、将軍の直書が図書頭へ向けて出されるらしい。入京中止を命じるもので、こうなれば図書頭も動きはとれんことになるでしょう。
そうですか。一口に言って、なんや小笠原図書も、決意の割には率いた兵が少ない感じですね。どこまでの決意やったんか、男山八幡宮の見晴台から眺めてそう思いましたわ。
そりゃ、幕府も苦しいでしょう。千、二千という兵でも、いざとなりゃ兵糧から見てもそう簡単に動かせるもんじゃあない。去年、寺田屋騒ぎのとき薩摩の久光公の出動も兵千人じゃったが、あれでも大騒ぎじゃったきに。それにもう一つ、今度の小笠原の出兵の筋を書いた人物は元の外国奉行の水野痴雲じゃそうな。主将、参謀ともに秀才に過ぎる。のう。幕府の首脳は皆、俊敏、剛腹か知れんが秀才に過ぎますが。昔、元亀天正の頃に家康の側近におった猛者らぁ、石川数正、酒井忠次、ちゅうた武将らしい武将、豪傑がおらんきに。無茶ができん。理屈に合わせようとしる。幕府は弱うなっちゅう。
しかし各藩も似たようなもんでしょう。
うむ。それもそうじゃ。
楠左衛門が苦い顔になりました。
土佐も豪傑は皆、押込められちゅう。水戸も薩摩もあのとおりじゃ。暴れ者が暴れちょるは長州じゃが、いざとなればどうかのう。
楠佐衛門は遠慮して加賀藩の事には触れませんが、本藩にせよ大聖寺藩にせよ事なかれの見本のような有様で、私も言葉を進める事ができません。秀才は多いが時勢に暗く、公武合体派ですらなく、いわゆる加賀の茶華ポン、遊芸に韜晦して天下の事に係わろうとしないのでした。改革派の黒羽織党すらも、藩外に対しては同じ態度でした。
ときに土佐へ帰られた諸君は、どうなっとりますか。
それが、無念なことに間崎哲馬、平井収二郎、弘瀬健太の三名は投獄されたまま、武市半平太が必死で救おうとしちょるが、容堂侯のお怒りは解けんらしい。切腹とのうわさもある。
楠左衛門はさらに苦渋の形相でこう言うのでした。切腹。あの人物平井隅山も切腹か。青蓮院門外での、白襷を締めた首領の勇姿を思いだし、暗い気持になりました。一件のことも容堂侯の耳に入っているのかも知れません。
かく言う拙者にも、実は帰国の命令が来ておってな。
え、土方さんにも、ですか。御不興を受けられたことは聞きましたが。
楠左衛門は頷きます。昨年の薩摩藩、そしてまた土佐藩。どの藩も上層部の本音は佐幕でした。伊井大老の幕府独裁に反発して、一旦は勤王党の活躍を認め、ときには煽動もして来たのでしたが、今や勤王党の独走を憎んで弾圧に変ったのでした。
まあ幸い拙者は藩命で三条家の衛士になっており、実美公の御愛顧を受けちょりますきに、三条家からの申入れで帰国は猶予されており申すよ。
それで安心しました。御国許とはゆうても、みすみす死地と知って帰られることはない。
いや、明日はどうなることか。
と楠左衛門は暗然とします。文久三年は時勢が最も激しく回転した年で、立場のいかんを問わず明日が知れないのでしたが、中でも容堂侯の変り身で土佐藩の回転は早いのでした。
そうじゃ、じつは貴殿にお願いしたい事がある。
お役に立つことなら何なりと、ただし何の力もありませんが。
いや、その御立場が丁度よいのじゃ。お怪我を幸い、と申しては申し訳ないが、付添いを口実に、女を一人預かって貰いたい。それが一番無難なやり方、という訳でのう。
女、ですか。
楠左衛門の申出にわたしは驚きました。預かる、というからには端女などではないでしょう。
し、しかし喰わすこともできんが。
それは当方でなんとかする。若干の用意はありますきに。いや、事情を申し上げんとならんのう。女は、すでに一度お目に止まった者でござるよ。
はて、心当りはありませんが。
拙者の身寄りの者で姪に当るのですが、やはり郷土の娘です。これが実は容堂公の、伊井大老に睨まれて御隠居となられた当時の容堂侯の侍女となりましての、今は京に来ております。土方梅野と申す。
あっ、あの、と思い当りました。目明かしに追われたと思い、土佐藩邸の長屋に一泊したあの朝、藩邸の庭で容堂侯の後ろに従っていた驚くほどの美貌の侍女二人、あの二人のどちらかだ、と思いました。しかしこれは又、仰天するような話ではありませんか。
貴殿も知ってのとおり老公は三月の末に御帰国。じゃが梅野のお供は許されなんだ。その理由は拙者、勤王党の縁に繋がる女じゃきに、と思わるる。今は、梅野は藩邸出入りの者の宿に謹慎中じゃが、今後の身の置き処がない。国許へも帰り憎い。かと言うて京に居れば身に危険が及ぶおそれが大きい。
なんで、ですか。
藩の佐幕派がその存在を許さんのじゃ。万一。
楠左衛門はここまで言って言葉を切りました。ややあって言い憎そうに、
お願いする以上お断り申し上げておく。御推察と思うが侍女とはいえ御寵愛を被っておった。これが藩主の御当時であれば、御身辺には小姓どもが仕える故、御側室でない限り殿のお手は届かんが、御隠居となれば別で、気ままの御暮らしとなる。梅野も御身辺にお仕えしての末じゃった。そのような女を御預り願いたいと申すのは心苦しいのじゃが切羽詰まってのことです。お許し願えようか。
そのような事は一向構わんことですが。
かたじけない。で、いま言い掛けた、万一のことです。佐幕派にして見れば、勤王党ゆかりの梅野が懐妊でもしておれば一大事。かりに然らずとしても御寵愛が戻るようなことがあってはならぬ。したがって今や、そのような女の存在を許さんのでござるよ。じつは今日、明日にも身が危ふい。その形跡があるのです。お引受け願えれば明日にも連れて参る。このたび貴殿の供に藩の小者ブイを付けたのはよかった。藩邸の用で負傷された病人と申せる。わたしに代って病人の看護とあらば藩に対して立派に名目も立つのです。そうして置いて同時に梅野のお暇願いも出します。これはすぐ許しが出ますよ。
お言葉ですが、万一追手が掛ったときは、この有様で今のわたしには姪御を守る力はない。力どころか、起きることも出来んがです。
いや、三条家菩提寺の一つ、この寺に乱入することはあるまい。何というても一人の女、そこまで狙いはせんでしょう。御病中、お側にお仕えさせて頂けりゃあ有難いのです。
お仕えなどと、お戯れを。容堂侯のお側に居られた方を、どう扱うていいやら分かりませんよ。
いや、たかが郷士の娘。お気遣いは要らん。拙者どもは元は長曽我部の一領具足の家人の末、の者じゃきに、加賀の地侍の末と言うての貴殿とは似た血筋じゃのう。いたって近しい気持で居り申すよ。お気のままに使うて下され。お手をお付けになっても一向差支えござらぬよ。
重ねてお戯れを。
いや、戯れではござらん。不憫な気はするが、あれの立場はそこまで来ちょる。お手前のお手でも付けば、梅野が再び容堂侯に召されることも無うなる。子を生んでも取り合われる心配もない。敵にとって不安の女では無うなるのです。それで命は救われる。たとえ一時でも、同じ育ちの御貴殿のお側に居て命が助かることができりゃ、女の仕合わせ、ちゅうもんでござる。
大名にとって女の一人や二人、消耗の品に過ぎますまい。その好色の相手とされた上、次は見も知らぬ男の一時の相手となって女の仕合せとは、何と言う悲しい、酷な言葉でしょうか。しかしこの文久三年から御一新まで、どれだけの男が非業に死んだことか。同じく、その妻や娘の多くがいかに残酷な境遇に陥ったことか。立派な武家の元妻女が窃かに町人の通い妾になったなど珍しくありません。時代は厳しく、この梅野という女も例外ではないのでした。
とはいえ、あの美女とは。この時の楠左衛門の申出には、狼狽して答えようを知らぬわたしでした。
青蓮院門前に桑名藩士松木七兵衛を撃ったときの仲間、横井源次郎が寺へ姿を現わしたのは雨の朝でした。高杉晋作襲撃の後は会っておりません。わたしの腿の脹れも多少とれ、起き上る事が出来るようになった日でした。京からこの寺までは長丁場ですから横井は蓑笠わらじの旅姿で来て、衣服は上から下まで雨に染まっておりました。
どうかね。だいぶ良さそうじゃな。
うむ。不覚の負傷をしたが命拾いをした。
貴公は運が強いからのう。運が強い者は得じゃのう。
横井は、その後の小笠原図書頭の軍の無断上京の動向を見定めに来たのだ、ということでした。依頼の筋がどこかは明かしませんが、土方楠左衛門からこの寺への添状を持参して居りました。
聞いたかの。とうとう将軍の退京が許された。どうやら小笠原の兵力誇示が効いて公卿どもが弱腰になったためじゃ。その代り小笠原も兵を引くと言うが、それが果して言葉どおりか、眼で見にゃぁならん。それで儂が来たんじゃ。
そうか。京もまた様子が変るな。
うむ。慶喜も春岳も去んで、今度は将軍も帰る。薩摩も例の件で任を解かれちょる。会津中将が孤軍奮闘じゃが病気らしい。また勤王党の天下となるな。腕が鳴るのう。
横井の言うとおり、去る五月二十日、姉小路公知卿の暗殺があり、薩摩藩の田中新兵衛が犯人とされ、薩摩藩はその責任を問われて乾御門の守備の役を解かれ、御所内への立入りも禁止され、逼塞の有様となっていました。長州を柱とする勤王党が天朝を独占する勢いであるのに反し、弱気になつた徳川慶喜は江戸から書を奉って将軍後見職の辞任を願い出ており、そこへ来て小笠原図書頭の撤兵です。徳川方の武力は弱くなりました。公卿たちの不安は去りました。将軍の帰国を許したとはいえ、勤王党の勢いは天下を圧することになりそうでした。
勤王党の軍師、久留米水天宮の神官、眞木和泉守は、伏見義挙が寺田屋事件で失敗に終わった昨年春このかた、久留米藩内の佐幕派に憎まれて藩地に拘禁され、死地にあったのでしたが、この頃、学習院の強引な内示による久留米藩庁の屈服で、赦免を受け、すでに長州を経て京へ向かっています。風雲は急でした。
庫裏の方から梅野が茶を運んで来ました。土佐紬につづれ帯という地味な姿ですが、その美貌を見て横井源次郎は驚いたようすでした。
これは。寺にこのような女子さぁがいるとはどうじゃ。
じつは土方さんの御身内で、看病に来て下さったがですよ。
ほう、えらい待遇じゃのう。青蓮院の手柄で土佐からの御褒美が女か。
白かった梅野の顔がさっと赤らみ、憤然として顔を背向けます。源次郎がなおも何か言い掛けるのを制して、
途方もない。青蓮院での件は何もわたし一人がやったことやない。貴殿と二人掛かりの仕手でやり、たまたま斬ったんがわたしというだけや。
何のなんの。儂はあのざま、月の下で皆が笑うたろう。貴殿も腹ではどうか。儂は一の仕手で攻めて、斬れんで、失敗じゃった。しかも危ないところを貴公に助けて貰うた。ざまはないわ。恩を借りてしもうたのう。
何を言われる。
恩を返さんは犬畜生よのう。あん時の事ぁ忘れんぞ。
そんな言い方はせんで下さいよ。
お主、あの後、土佐藩が呉れるという礼金を断ったそうじゃな。それを聞いた時は、ふうんと思うたが、却ってこの待遇じゃ。お主、仲々やるのう。
横井君、思いもよらんことを。
ええんじゃ。扶知を貰うちょる藩士らぁと、脱藩の、宿無し浪士のわれらとは根本が違う。それが分かって来た。わしもやるぞ。
しかし勤王党から手当てを頂いとるんじゃから。
なに。
横井が聞き咎めました。
手当てを。貴公、手当を貰うちょるのか。わしはそのような事はないぞ。お主、どこから。
これを聞いて、しまった、これは具合が悪いことを言ったのだな、と思いました。その時です。庭先に騒々しい争い声が起りました。
なんだ。
庭の向う、寺庭の入口のあたりで罵声が聞こえ、
こりゃぁ、こりゃぁ。おんどれらァの来る所やない。去ね、いね、去なんかい。寺を汚す気ィか。
それはこの寺の寺男、猫兵衛でした。その権高な叱咤の下で、
お願い申し上げまァ、お願い申し上げまァ。
と言っている声は、聞き覚えに間違いなく、たしかに虚空の声でした。
なんの騒ぎかいの。
横井がそう言って縁側へ出ました。
わたしも手をついて立ち上り、そろそろと続きました。
やはり虚空でした。あの時の連れの女もいます。他に三人ばかり、これは見たことのない男が固まっていました。虚空が手に持っているのは手桶でした。
やい、出んかい。
猫兵衛の罵声は止みません。
おい、どうしたんじゃ。
その時、梅野が物蔭から姿を現わして、
この者たちが、お傷の癒りを祈って鯉を持参したのでございます。
それに生血も。
と虚空の連れの女が叫び、茶色い素焼の鉢を差し上げました。
なんちゅうことをする。ここはお寺さまじゃ。だいいち、お前らァ、博労が入ってええ身かい。
と猫兵衛は猛り狂います。
へえ。申し訳もござりません。お願い申し上げまァ。せめてこれだけを。
ならんわい。
虚空たちはぺたりと地面へ座りました。地面は雨で濡れているのでした。
ここは寺格があり、厳しい門構えのある寺です。困った、と思った時、横井が声を掛けました。
まあええじゃないか。
滅相もない。
この時、梅野が進み出て、虚空らに向い、
そこへ置きなさい。
へえ。
そしてあっちへ行きなさい。早く。
と、鯉を置かせて追立てます。
へえ。お許しなされて下はりませ。
と虚空たちは地面へ頭をすり付け、後ずさりして立去りろうとするのでした。
おい、虚空。有難う。
へえ。へえ。
やい。早う行け。
猫兵衛がどなります。
しかし寺男も当時は下の身分です。それなのに少し立場が異ると、たちまち居丈高になるとは、言葉を絶するような成行きでした。
だが、虚空たちの好意には、その場で応えて見せたいと思いました。鯉の生血を呑むのは一苦労でしたが、これが養生に良いことは分ってい、梅野に盃一ぱいを先ず取って貰って呑みました。虚空たちは見てくれているか。やっと呑んで、気にして見やると、どうでしょう。ずっと向うへ退いたまま雨に濡れて残っている仲間の前で、虚空が身をかがめて、前に立つ猫兵衛に何か語り掛けています。猫兵衛もじっと聞いているのです。はて。しかし見ているうちに見当が付いてきました。
虚空は何か口上を述べているのです。
博徒や香具師、あるいは女郎宿の妓夫太郎、こういった者たちの間では、口上を述べれば全国どこを流れても通用し、面倒を見て貰うことが出来ると聞いています。博徒は百姓の崩れ身分でしょうが、香具師や妓夫は浮浪の徒です。同じような約束事があるのでしょう。そういえば虚空は元は虚空蔵菩薩の堂守りだった男です。寺男の猫兵衛は同職とも言えるのでした。猫兵衛は態度も柔らげ、警戒も解いている様子でした。
口上が終わったらしく、二人が身を立てました。その時。
こんどは小雨の中を虚空の連れの女が不意に進み出て、頭を突き破るような高音で、
おん あびらけん ばざら 何とか
と真言の咒らしいものを唱えたかと思うと、どこから出したのか舞い鈴のような物を手にして頭上に振り、水溜を構わず、とんとんと足踏みをし、踊り出しました。何でしょうか。これを見て仲間の一人が、いきなり声を上げ、
はやせぇ。
これを受け、虚空も含め一同が、やあッ、とはやし、それに応じて女はますます激しく踊り、高く唄いました。猫兵衛は呆然としています。
鳩とトンビと
雉と燕と雁金と
鴬の鳴声は
くうく ぴいひゃらけんの
ハッ
ぴいひゃらけんの けんとォけん
じゅくじゅく つんぐり ほうほけきょ
あっち向いて そりゃ何じゃ
つんぐり むんぐり
キャッ
至って奇妙な唄でした。それが終わるや、
はやせぇッ。
と、また一同がはやしました。
白昼、はなはだ奇怪の所作でしたが、あの伏見稲荷でブイと一緒に休んでいたとき、かなたの方でこれと同じ騒ぎがあったのを思い出しました。あの時は真言風の行者らが蝋燭燭台の炎のゆらめく煙の中で印を結んで経文などを唱える異様な光景の中でしたから、その踊りも奇異に感じなかったのでした。が、禅寺の静かな庭で行われると奇怪なものでした。
が、するとどうでしょう、女の前を猫兵衛が何故か、たじたじと下がるのが見て取れました。しばらくあって女がこちらを指差し、猫兵衛もこちらを見、肯いて頭を下げました。何事でしょうか。これはどうやら女の方が上の立場にいるようです。不思議な変化でしたが、恐らく今の唄に、何か仲間だけの意味があったようでした
お慰みぃ。
女はちょっと不愉快な高い声で、こちらへ向かって叫びました。
何をしていますか。早くお退り。
わたしの側で声がしました。梅野でした。虚空たちを好まぬらしく、厳しい声で叱るのでした。
まあいいが。梅野さん、あれらの好意じゃ。
いえ。
しかしそれ以上は何も言いません。虚空たちもこの様子を見て取ったらしく、ぞろぞろと立ち退りました。鯉の桶は地面に置かれたままでした。
しかし梅野は土佐の田舎育ち、郷土の娘で鯉のさばきは上手でした。殺生禁断の寺の庫裏で魚をいじることは出来ませんが、梅野は離れの井戸端で小雨の中、手拭をかぶり、襷掛け、白い二の腕を露わして料理をし、猫兵衛もこれには文句を言いません。先程の騒ぎも寺での生臭を咎めたというより、博労達が猫兵衛の縄張りを無視して境内へ入ったのを咎めたことに始まった騒ぎでした。
まあ、良い鯉。一つは鱗を取らずに鯉こくに致しましょう。お味噌で二日も、ことこと煮れば骨も鱗も、ざくっと食べられる柔らかい歯ごたえになりまする。
その後、横井はいったん雨の中を出ていきましたが、夕刻また寺へ帰ってきました。夜は、一つ蚊帳の中で横井と枕を並べて寝ました。横井もさすがに、梅野のことについてあれ以上のことは言いません。
眞木和泉殿が上京される。聞いちょるかの。
聞いていますよ。
また何か一挙があろう。
そういって横井はやがて寝息を立てはじめました。が、わたしは朝の出来事を考えていました。どうやら馬喰たちの世界に、わたしは入り込んでしまったようでした。もし一挙があれば、虚空たちと一緒にやることになるのだ、と思いました。


